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 山崎賢一 外野手
−ある意味弱小球団を象徴する選手−


 横浜大洋ホエールズを代表する投手の第1号として大遠藤様を紹介するのは、恐らく異論の余地がない事だと思います。では打者は・・・?これは人によって意見があることでしょう。そんな中で私が取り上げましたのは山崎賢一選手です。

こけしバット(モデル)だ! ここに1本のバットがあります。何の変哲もない軟式少年野球用の金属バット・・・と言いたいところですが違います。グリップ部分が異様に大きいこのバットこそ、山崎選手が使用していた
こけしバットモデルなのです!(なぜか顔写真の左側にあるキャッチフレーズは「トンカチバットの山崎だ!」となっていますが・・・)恐らく活躍していた1990年頃のものと思われますが、偶然手に入れることができました。

 山崎選手は、1980年オフに所沢商業高校から
ドラフト外で入団しました。ニックネームは「番長」。プロ野球ニュースのシーズンオフ企画だかで入団会見の映像を見たことがありますが、右の写真とは違って非常に目つきが悪く、このニックネームが付いたのも納得です。

 入団時の背番号は
46番。後に「2代目番長」を襲名する三浦投手も入団時の背番号が46番だったのは偶然でしょうか?1984年までの4年間はファームでみっちりしごかれるも、1軍出場なし。手元にある一番古い選手名鑑が1984年版ですが、そこでは次のように紹介されております。

 『番長のニックネームを持つプロ4年生。別当前代表がほれ込んで獲得した
好素質男体力不足が難点。』

 1985年、背番号が
59に格下げされたことに発奮したのか、22盗塁でイースタン盗塁王を獲得。1軍デビューも果たします。機動力重視の近藤監督がこの年から就任したのも、有利に働いたのでしょう。32試合出場で3盗塁、プロ入り初HRもかっ飛ばしています。

 さらに、1986年はスーパーカートリオの一員・加藤選手の負傷により出番が一気に増えました。代打・代走・守備固め中心ながら
97試合の出場を記録し、独特のこけしバットがファンに認知されるようになりました。多分、ハマスタがこの選手に興味を持つようになったのもこの頃からです。しかし、監督が替わった翌1987年は不振。1割台の打率に終わり、42試合出場にとどまりました。

 1988年に再びチャンスが訪れました。屋鋪選手の不振で
センタースタメンの機会が与えられ、そこで結果を残したので、今度はレフトのパチョレック選手を1塁に追いやって6番レフトのスタメンを勝ち取ったのです。71試合出場で自己最多の66安打打率.297、2HR、8盗塁という成績でした。

 そして運命の1989年、見事6番レフトで
開幕戦初スタメンに名を連ねた山崎選手は絶好調!しかし、チームは絶不調!とくに主砲ポンセ選手の不振が長引きました。業を煮やした古葉監督は、いつしか4番山崎とメンバー表に書き込むようになりました。

 まさに
チーム状態の酷さで生まれた4番打者ですが、山崎選手は頑張りました。3番に抜擢された屋鋪選手のように自分を見失うことなく、短打狙いのバッティングでコツコツとランナーを返し、前半戦3割5分台の好打率でした。また2年連続大不振の屋鋪選手に代わってセンターを守ることが多くなり、好守備も連発しました。

 見事、
オールスター戦にも選ばれ、こけしバットは全国区になりました。しかし、初めてのレギュラーシーズンでさすがに疲れが溜まったのか、夏場以降は成績が急降下。辛うじて3割をキープしました。

 結局、最終成績は
129試合出場打率.309(5位)、7HR56打点17盗塁でした。他チームでは騒ぐほどの成績ではありませんが、どん底チームでの孤軍奮闘が認められて、ベストナイン・ゴールデングラブ賞に選ばれ、チームにとっては最低の、本人にとっては最高の1年が幕を閉じました。

 翌1990年、背番号が
2番に格上げとなり、3番センターとして前半戦は打率2割8分台と活躍。2年連続でオールスターに選ばれました。しかし、またもや夏場以降成績が降下。109試合出場で打率.259に終わりました。どうやら6年前の選手名鑑に書かれた「体力不足」は克服できていなかったようです。それでも2年連続のゴールデングラブ賞にも選ばれました。

 残念なことに、翌年以降は
出場機会が激減してしまいました。宮里選手・横谷選手といった同タイプの選手の成長や、レイノルズ選手(1991〜1992年)・シーツ選手(1992年)と外国人外野手を補強したためです。1991年が54試合、弱小球団最後の1992年も僅か62試合出場でした。

 その後の山崎選手は、1993年に
ベイスターズ初代3番打者として開幕スタメンに名を連ねるも60試合出場・1割台の打率で、オフには駒田選手獲得のための大量解雇事件の犠牲者となってしまいました。1994年からはホークスの一員となり、外野準レギュラーとして2年続けて80試合以上出場とそこそこ活躍しました。しかし、1996年は1軍出場なしでそのままオフに現役引退、同球団スカウトに転向しました。この記事(2001.12.1参照)によると現在も同球団のスカウトのようです。

 チームがどん底の時に
生涯最高の成績を上げてしまった不運な選手。しかし、あの年に山崎選手の活躍がなかったら、弱小球団は完全にファンから見捨てられていたかも知れません。それだけに、野手ではハマスタが一番思い入れのある選手です。いつの日か弱小球団の末裔(←素直にベイスターズと言いなさい!)と和解して、指導者としてこけしバットを若手に伝授して欲しい。そんな日がやって来るのを待っています。

この立派なグリップエンドでヒットを量産!

【データ】
 1962年7月20日生 左投左打
 所沢商(1981年ドラフト外)
 
1981〜1992年 弱小球団(12年)
 1993年        ベイスターズ(1年)
 1994〜1996年  ホークス(3年)
 
背番号 46(1981〜1984年)
       59(1985〜1989年)
        2(1990〜1992年)

         2(1993年)ベイスターズ
        26(1994〜1996年)ホークス
 通算成績 823試合出場 2058打数546安打 打率.265
        19HR 202打点 63盗塁
 
弱小球団(横浜大洋)のみ
       596試合出場 1659打数457安打 打率.275
       18HR 167打点 61盗塁


【主なタイトル等】
 ベストナイン 1回(89)
 ゴールデングラブ 2回(89・90)
 オールスター出場 2回(89・90)


〜山崎賢一選手のテーマ〜
 行けよ行け行け山崎
 行けよ行け行け山崎
 打って打って山崎
 一発かっとばせ



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