奴隷制度の歴史−2

U.古代の奴隷制度
 戦いに敗れ捕虜となった者が、生命だけは助けられて苦役につかせられる。これが古い時代における奴隷の起源のもっとも重要なものである。

[古代バビロニアの奴隷制度]
 今から4千年前、バビロン第一王朝が成立した。その第六代の王が「正義の王」ハムラビである。この王は、「強き者が弱き者を圧迫せぬよう、悩むある者に光を与えるよう」、法典を制定した。これこそ、「目には目を、歯には歯を」で有名なハムラビ法典である。

ハンムラビ大王 ←ハムラビ王

ハムラビ法典→
楔形文字で書かれたハムラビ法典

【ハムラビ法典における奴隷】
 ハムラビ法では奴隷のあつかいは決して「目には目を」ではない。医者への謝礼についても、刑罰についても、自由民とは全く違う扱いであった。奴隷は逃亡すれば 死刑、主人に対する反抗的言葉によってたちまち耳を削がれた。しかし一方、バビロニアの奴隷たちは売買・契約の主体となり、結婚することが出来た
 ハムラビ法には無際限な奴隷化の進展を抑制するため「債務による人身抵当」の規定がある。また、妾としての女奴隷に関する規定や相続についての細かな規定が設けられている。日本の現行民法が、「嫡出でない直系卑属の相続分は、嫡出である直系卑属の相続分の2分の1」として正妻以外の子供の人権を差別的に扱っているのに対し、「正義の法」は、“嫡出でない直系卑属”の人格を嫡出子と平等に認めているのである。
 このように、古バビロニアの奴隷の待遇には、温情的な寛容さが示される場合もあった。また、奴隷は必ずしも終身ではなく一時的奴隷も多かった。さらに、古バビロニアの諸王は、債務を帳消しとして奴隷を解放する「徳政令」を度々実施した。

【新バビロニア】
 古バビロニアの伝統を受けて、奴隷に対する比較的マイルドな扱いも徐々に広範囲にわたって見られる様になる。奴隷の中には、自ら事業主として事業を営む者も現れた。中には「自らの奴隷を持つ奴隷」までいた。法律上も、主人は勝手気儘に奴隷の生命を奪ってはならないものとされ、過度の虐待も勅令によって禁止された。
 新バビロニア第二代の王ネブカドネザルは、二次にわたって有名な「バビロン捕囚」を行い、イスラエル王国を滅ぼしてユダヤの民をバビロンへ強制移住させた。そのため、旧約聖書「ダニエル書」では「野獣と化して狂死した極悪人」として描かれている。しかし、最近の研究では、「捕囚」といってもユダヤ人に対する扱いには相当寛大な面もあったことが指摘されている。「捕因」は、バビロンを当代随一の世界都市に仕立て上げる為の強制的な人材確保策といった性格のもので、必ずしも鞭や鎖による暴虐が続けられたのではない。
 しかし、部分的な温情主義は、あくまで奴隷を被差別の地位に押し込めておくことを前提として成り立つものであり、奴隷たちは社会の最低辺で搾取の対象となっていた。また、この時代には貨幣経済が発達し、商業活動が複雑化したうえに負債奴隷を禁ずる法律の強制力も弛緩した。高利貸が20ないし30%という暴利の貸付で富を独占する一方、債務奴隷に転落する者が激増し、多くの自由民が没落していった。また、新バビロニアの時代に至ると、正妻でない女性は奴隷の地位に留まり、また主人の死後には奴隷として売られてしまうことが多くなった。

[古代エジプトの奴隷制]
 歴史の父ヘロドトスは「エジプトはナイルの賜」と言ったが、全長670kmにも及ぶ世界最長の大河ナイルは毎年夏季にゆるやかな大氾濫を起こし、流域一帯を沃土に変える。エジプトの天文学はナイル河の水量増減の周期を算定し農作業の適切な時期を知る必要からうまれた。天文を司る僧侶身分による支配が成立し、その対極に奴隷が発生した。

【古王国】
 エジプトと言えばピラミッドであるが、ピラミッドの建設ラッシュは、紀元前2600年から前2100年にかけての500年間、即ち古王国の時代に集中して起こった。そこで古王国時代を「ピラミッド時代」と呼ぶ。
 ピラミッドは奴隷労働によるというより、農閑期に国家が総動貝した全人民にたいする強制労働による産物であった。最近の研究では、「強制労働」とは言っても、一種神聖な「お祭り的な賑わい」の雰囲気さえ伴った、と言われている。
 「巨大ピラミッドを建造させたファラオとは奴隷をムチ打って使役する残虐な支配者だった」という一種の神話が、特に中世以後の聖書の記述の短絡的な解釈などとともに広まり定着してしまったため、クフ王などは奴隷をこき使う暴君の代表として言い伝えられることになった。

クフ王の像 ←クフ王

ピラミッド→
大ピラミッド

 クフ王の先王スネフルは、多くの俗文学・智慧文学の中で「希代の賢王」と謳われた。しかし、この「大名君」は近隣諸民族を征服し奴隷とした「暴君」でもあった。スネフル治世下での大規模な奴隷取引を立証する碑文に拠ると、彼は戦争と征服と掠奪とによって家畜や奴隷を捕らえ、治世半ばには、ヌビア人7000人とウシ20万頭、治世末年にはリビユア人1万1000人とウシ1万3000頭が略取されたという。奴隷化される側の民族にとってはスネフルの遠征活動は、潰滅的なダメージをもたらした。奴隷にされた者たちは、シリアの銅山やヌビアの金山での苛酷な鉱山採掘作業に集団で大量に使役されたほか、傭兵・警察軍・保安隊といったポストで用いられ、後世とは異なって農業にはほとんど用いられなかった。このように古代エジプトの黄金文明は古王国の時代から奴隷制と共に歩んだのである。

【中王国】
 古王国末期から動乱の時代を経てファラオの絶対的権力が一時低下する。一方で、地方の州侯たちは自らの支持基盤を確保すべく「小人(ネジェス)」と呼ばれた都市庶民層を保護し、中央権力からの自立の度合いを強めていった。その過程でエジプト社会は、政治・経済・宗教・文学等のあらゆる分野で市民化・世俗化し、いわゆる「庶民国家」としての中王国の時代が訪れる。
 政治面での世俗化は、庶民層の官吏登用への道を開いた。人びとは、ある程度身分に係わりなく文字を習い、ホワイトカラーとしての技術や知識を身につける機会を得られるようになった。第10王朝期に書かれた「メリカラー王への教訓」には、「貴族の子弟と素姓卑しき者とを分け隔てしてはならない。能力によってこそ、人々を取り立ててやるべきである」との一節が見られる。しかし、この時代も奴隷は社会の最底辺に止め置かれるべき階層として、例えば氏姓を持つことが厳しく禁じられていた。
 中王国第12王朝期には、国家の行政基盤を整える為に広く庶民層からも人材を掘り起こした。しかし、それでも人材の不足は十分には補えなかった様で、中王国末期から主に特殊技能の所持者の獲得をめざして、活発な奴隷貿易が展開された

【新王国】
 新王国時代になると、エジプトはオリエント全域にその権勢を示し、「帝国時代」と呼ばれる極盛期を呈した。国が富み栄え、その権力中枢を少数の「小人」たちが牛耳り賄賂が横行した。古代エジプトでは、官吏の不正に対しては、王命によって厳罰処分の与えられるのが通例であった。特に賄賂に対する処罰は、その授受を噂されるだけで「資格剥奪・追放・強制労働」という厳しいものであった。第19王朝セティT世の或る勅令には、次のように書かれている。

「賄賂を要求すると人々に言われている神官はその地位より追放し、農夫(奴隷)とせよ。神宮に賄賂を与えると人々に言われている運搬人・神父・下級神官・典礼司祭はその地位より追放し、農夫とせよ。」

 一般人に関しては、税金の未納・怠業・逃亡等について上と同様な刑罰が与えられ、「人身配分局」の管理の下に強制労働が課された。個人の所有品を盗み取った場合は盗品を返却の上、その品の2〜3倍の賠償を支払い、神殿の所有品については百叩きと百倍の賠償が課された。古代エジプトの生産を基本的に支えた家畜の窃盗に対しては更に重い罰が与えられ、個人家畜の窃盗には両手の切断、神殿家畜の窃盗には耳・鼻を削ぎ奴隷化するという残酷な刑が課された。最大のタブーは祭祀具の盗みで、これに対しては即刻死罪が与えられた。官吏が神殿に係わる犯罪をなした場合、妻子が奴隷化された。
 貨幣は未発達ながら、信用取引は大々的に行われていた。その為に、一方では各種文書の作成を独占する書記の特権化、他方では庶民の債務奴隷化による没落が進行していった。ラムセスT世の治世には、債務奴隷が激増する一方で、全耕地の7分の1(75万エーカー)、50万頭の家畜、全人口の13分の1に当たる10万7千人の奴隷を、ひと握りの書記・僧侶が独占するに至った。
 新王国時代の周辺諸地域への拡張政策は、膨大な数の奴隷をもたらした。特に紀元前二千年紀には、私的な奴隷所有も一般化し、中王国期までは王族や貴族・神官の間に限られていた奴隷の保有・使役が、広く社会のあらゆる部面で見られるようになる。一人の主人が所有する奴隷数は小規模で、一人ないしは二人に限られることが多かったが、奴隷は、牛飼い・妾・理髪師・馬丁・兵士・歌手・商人・サンダル作り・機織り・農夫・庭師・家内雑役・屠殺人・鳥射ち・漁師・金銀細工師等々、あらゆる職種にわたって使役された。現存する最長のパピルスであるハリス・パピルスには、ラムセスU世の治世だけで「岸辺の砂の如き多数の奴隷が捕獲され寄進された」と記されている。当初は奴隷の大部分は女性であったが時代が下るにつれて男奴隷の比重が大きくなっていった。
 アメンヘテプU世は、治世中に幾度かの大規模なアジア遠征を企てた。治世2年目には、パレスチナの戦闘で「貴族」550人余をはじめとして、その妻子並びにカナーン人2255人以上を奴隷とし、治世7年目及び9年目には、ハリタ、ヌカシェ、ヘブライ人等々を10万3342人も捕虜とした。これらの捕虜は国有奴隷として国有地に集団で割り当てられ、或いは神殿に寄進され、更には高官・貴族・戦功者等に配分された。
 トトメスV世・アメンヘテプU世両王の度重なる遠征によってもたらされた財宝と奴隷とを礎として、アメンヘテプV世の時代には、空前の大規模建造物が建ち並ぶ、豪奢極まりない文化が花開いた。アメンヘテプV世の治世の有様を伝える絵画や彫刻は、首都テーベがクレタ商人や黒人兵士、ミタンニ・バビロニアからの朝貢使節団、そしてシリア人奴隷などでごった返していた史上最古の一大コスモポリスであったことを教えている。
 ラムセスU世は、新王国極盛期の最後の王である。旧約聖書「出エジプト記」に言う“エジプト王”とはこの王のことであろうとされる。奴隷史研究には極めて係わりの深いファラオである。彼は67年間も王位にあって約150人の子供を儲け、97才で没した。驚くことに、今日エジプトに遺る歴史的建造物の半数以上が、ラムセスU世の手になるものだ、ということである。
 ラムセスU世に係わる巨石遺物が数多く現存し、また聖書に記されている同王の所業からみて、その治世にはさぞかし奴隷制が猖獗を極めたことであろうとの臆測が一般化している。しかし、同王の時代に「多数化する」のは、実は例えばカディシュの戦い(前1285年)等で捕虜とされたユダヤ人の奴隷である。
 ラムセスU世は当時のアジア列強諸国と戦火を交えて多数のユダヤ人・ヒッタイト人等を奴隷化していた。前1269年に彼はヒッタイトと不可侵条約を締結していわば、相互の奴隷化戦略に終止符を打った。平和の実現は、ヒッタイトの独占していた製鉄技術の拡散と普及、アッシリアの抬頭、地中海民族の進出、等々を呼び起こし、古代近東世界の旧秩序を一変するに至った。

ラムセスU世の像 ラムセスU

 第19王朝滅亡後には、セトナクトが第20王朝の開祖となった。このセトナクトを継いだのがラムセスV世である。ラムセスV世は「新王国最後の賢王」と讃えられた名君である。この王は、治世33年間で少なくとも11万3433人を超える奴隷を諸地方の神殿群に献納したと言われる。
 王は多数の戦争捕虜をナイル河口域のデルタ地帯に強制的に入植させ、下層労働民として各種の産業に従事させた。中でも多かったのはやはり神殿に献納された奴隷であったが、神殿群に奴隷を奉納した時に書かれた当時の「奴隷寄進表」には、奴隷の総称としては“フム(女奴隷はフムト)”なる呼称が用いられ、これら奴隷には王の烙印が捺されて牛と交換されたり売買されたりしていた、と記されている。フムは妻子もまた奴隷となるのが習わしであったが、一般人への転化も比較的容易であった。

[古代ギリシャ・ローマの奴隷制]
 古代ギリシア・ローマ時代は、世界史上最も奴隷制が発達した社会である。奴隷が私有化され、贈与、売買、相続の対象とされていた。さらに鉱山労働やオリーブやブドウなどの栽培に従事する労働奴隷の需要が増大するにつれて、奴隷の商品化が進んだ。ローマ帝国では1日に1万人もの奴隷が売買されていたという記録がある。奴隷の供給源は、征服された民族や戦争の捕虜のほかに、奴隷として輸入された異民族負債を返済できない自由民、納税のため家長に売られた家族や、略取・誘拐された婦女子などであった。

【ギリシャ】
 前5〜6世紀のポリス社会での、生産の主な担い手は奴隷であり、ローマとともに奴隷制性社会の典型とされている。
 古代ギリシャ人の考え方では、労苦を伴う労働から解放されて余暇を十分にもち、世界や宇宙の観想を深める生き方が理想であった。奴隷制の発達によりポリスの市民の多くは肉体労働から開放され、そこから生れた余力を公共生活や文化活動にふり向けることができた。前5世紀におけるアテネの民主政治と学問、芸術の発展は奴隷制度によって実現したのである。
 はじめは、戦争の捕虜や略奪・債務による奴隷が主であった。戦争で奴隷を手に入れるやり方でも古代ギリシャは古代ローマの先輩にあたる。後には外国人奴隷が輸入されるようになり、家内労働や大土地経営、手工業経営や鉱山の採掘に集団的に使役された。アテネには、人口の約3分の1にあたる約8万人の奴隷がいたが、その多くは異民族の奴隷であった。アテネの場合、奴隷の多くは召し使いなどの家内奴隷であったが、ラウレイオン銀山をはじめ鉱山でも大量の奴隷が使用された。その生活は当然のように最も悲惨であった。また陶器の製造をはじめとする手工業でも奴隷が使用され、市民の生活を支えた。債務奴隷も多かったが、ソロンの立法以後は禁止された。スパルタでは実に市民の10倍もの数の奴隷がいた。スパルタでは被征服民が奴隷とされ、ヘロットと呼ばれ、農業労働に従事した。
 有名な哲学者アリストテレス「奴隷は生きた財産である。・・・奴隷と家畜の用途には大差がない。なぜなら両方とも肉体によって人生に奉仕するものだから。・・・」と述べている。当時のギリシアでは奴隷制は不可欠であったので、大学者にとっても疑問を持つ余地などなかったのである。

アリストテレス アリストテレス

【ローマ】
 古代ローマの奴隷がたびたび引き合いに出されるのは、何よりもその規模が大きかったからである。古代ローマの奴隷制は、奴隷の数が市民より数十倍も多いという驚くべき規模に達していた。古代ローマの奴隷は、主として戦争捕虜であった。奴隷は消耗品であるから補充しなければならない。ローマは奴隷補充のために戦争を行った。ローマにとっての戦争は、捕虜獲得のための重要な経済活動であったのである。Latifundium(ラテフンディアム)と呼ばれた大農場で大量の奴隷を酷使することが古代ローマ社会の生産力の基盤であった。
 戦争で捕獲奴隷が潤沢に供給でき、反抗する奴隷たちを強権で鎮圧できた時代にはそれでよかったが、奴隷捕獲のメリットよりも反抗・反乱・戦争のコストの方が大きくなるにつれ、古代ローマの生産力主体は奴隷労働からコロヌスと呼ばれる農奴的農民へと、しだいに移っていった。

 ローマ人は有名なコロッセウム(円形闘技場)で奴隷に生死をかけた決闘を行わせ、それを見て楽しむという悪趣味な娯楽を好んだが、そのために養成されたのが剣闘奴隷(剣奴・剣闘士である。

剣闘士(剣奴) 剣闘士

 剣奴の多くは、ゲルマンやガリア、バルカンなどから連れてこられた戦争捕虜であった。彼らは猛獣と戦わされたり、仲間同士で殺し合いをさせられた。彼らにとって最も屈辱的であったのは、かっての敵の娯楽のために命をかけて戦わなければならないことであり、最もつらかったのは、自分が生きるために仲間を殺さなければならなかったことであった。それに耐えることができずに自殺した剣闘士も多かった。
 スパルタクスの反乱(前73〜前71)は当時ローマを揺るがした大事件であった。
 BC73年早春、カプアの剣闘士養成所で脱走を呼びかけるものがいた。その奴隷こそトラキア出身のスパルタクスであった。「見物人の慰み者になるよりは、自分たち自身のために戦おう」と説得を続け、200人が計画に荷担した。しかし、奴隷内に内通者がでたため、急遽計画を実行に移した。剣奴養成所から78人の剣奴がスパルタクスを頭として脱出し、ヴェスヴィオス山に立てこもり反乱を起こした。奴隷制度の廃止を宣言したことから、多数の逃亡奴隷や貧民も合流したのでその数は急増し、最盛期には12万人に達した。当初は奴隷たちが生まれ故郷に帰ることを目的にしたので、南イタリアを占領した後、北イタリアに進出した。北イタリアに進出したのは奴隷の中にはガリア(現在のフランス)やトラキア(現在のブルガリア辺り)の出身の者が多かったからだが、彼らが帰郷よりも掠奪を望んだので、再び南下してシチリア島に渡ろうとして失敗し、スパルタクスは南イタリアでクラッススの軍と戦って戦死した。そのため大反乱も総崩れとなり、残党はポンペイウスに討伐され、捕虜の約6千人がアッピア街道で磔にされた。

 ローマ帝国第4代皇帝クラウディウスは解放奴隷を皇帝官房に任命し官僚機構を整備したこれは、ローマの指導層にみられる奴隷の使い方の特色である。少年時代は竹馬の友、家父長になってからは主人の秘書にするというローマ独特の奴隷制度の延長であった。クラウディウスはそれを国政レベルに合わせた。官房長官ナルキッススに代表されるような解放奴隷出身者が国政や軍団の場でより重要な位置を占めることになった。
 さらに皇帝ぺリティナクスはリグリア出身の解放奴隷の息子である。父は奴隷だったが解放された後、羊毛の取引で成功をおさめる。そのおかげでぺリティナクスは古典教育を受けることができた。ぺリティナクスは始めは教師を職業としていたが35歳のとき軍人に転じ、順調に昇進、ヨーク駐屯の第6ウィクトリクス軍団の司令官を経て、ゲルマニア地方での北部戦争ではマルクス・アウレリウス帝の部下として活躍した。そのときの褒賞として元老院議員に選ばれ、175年に執政官、モエシア属州総督、ダキア属州総督、180年にはシリア属州総督に就任。アフリカ属州総督を経て189年にローマ首都長官に就任した。先帝暗殺の首謀者である侍従長ラエトゥス、親衛隊長エレクトゥスの説得により帝位についた。
 ディオクレティアヌス帝ダルマティア(旧ユーゴスラヴィア西部)の貧農、解放奴隷の子として生まれ、一兵卒から皇帝の親衛隊長となった。、皇帝ヌメリアヌスが暗殺された後、ニコメディア(小アジア西北部の都市)で軍隊に推されて帝位についた。彼は広大な帝国を統治するために元の同僚のマクシミアヌスを第2の正帝に任命し、さらに2人の副帝を任命し、帝国の「四分統治」を成立させ、自らは東の正帝としてトラキア・アジア・エジプトを直轄し、さらに全帝国をも治めた。これ以後ローマ帝国では皇帝は「ドミヌス(奴隷の主人)」と呼ばれ、市民は臣民となった
 ローマの奴隷制度は古代ギリシア、近代帝国主義時代の奴隷制度とは一線を画するものである。奴隷の子は奴隷とか、一生奴隷ではなく、資産さえ稼げば、それと引き換えに奴隷の身分から解放された。これを解放奴隷といい、後に政府の要職や資産家として名をはせるものも少なくなかった。また、ローマの奴隷の息子は使えている主人の息子と共に高等教育を受けることもよくあることで、将来息子が独り立ちをしたときに有能で忠誠心厚い秘書官をつくる上で有益な措置だったのである。
 ローマは肌の色や言語、民族が違ってもローマ市民権を持つチャンスは何時でもあった。ローマ元老院の構成民族は歴史が進むにつれて多様な民族構成になっていった。その寛容な態度は古代ギリシャや近代帝国主義国家とはまったく異なっていた。

[聖書と奴隷]
 イスラエル人自身が私有財産として所有する奴隷に関しては、イスラエルの神もイスラエルの指導者も解放する意思を持ってはいない。イスラエル人が多くの奴隷を持つことは、他の財産と同じく、神のイスラエル人に対する恵みとされている。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、皆、数多くの奴隷を所有しており、私有財産として売買していた。

「わたしヤコブはラバンのもとに滞在し今日に至ったが、牛、ろば、羊、男女の奴隷を所有するようになった。」『創世記』
「ヨセフは、エジプト中のすべての農地をファラオのために買い上げた。飢饉が激しくなったので、エジプト人は皆自分の畑を売ったからである。土地はこうしてファラオのものとなった。また民については、エジプト領の端から端まで、ヨセフが彼らを奴隷にした。」『創世記』

 旧約聖書のなかでもっとも有名な物語はモーセがエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を解放し新天地カナンへと導き出した物語である。旧約聖書の第五番目の書である『申命記』によれば、モーセは、カナンの地を目の前にしたイスラエルの民たちに対して、その地に入ったらいかに行動すべきかを教えている。モーセは、先住民は殺すか、さもなければ奴隷にせよ、と教えている。

「ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。だだし、女、子供、家畜、および町にあるものすべてあなたのぶんどり品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり品を自由に用いることができる。このようになしうるのは、遠くはなれた町々に対してであって、次に挙げる国々に属する町々に対してではない。あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国民の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。」

 神も神のしもべモーセも奴隷制度に対して何の反対もしていない。イスラエル人が他の民族の奴隷になることはいけないが、他の民族がイスラエル人の奴隷となることはむしろ奨励されているのである。
 さらに、聖書によれば、ノアの子供たちが、セム、ハム、ヤフェトの3人である。セムの子孫がアブラハム、ハムの子孫がアフリカ人、ヤフェトはその他の民族の祖となった。3人のうちハムがノアを犯した罪で肌を黒くされ、呪われた民になったとおとしめられた。黒人差別は、「神との契約を守るため」と、信仰からも長く正当化されてきたのである。



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