弥生の侵略者徐福 徐福

1.徐福の話

 「門松は、冥土の旅の、一里塚、目出度くもあり、目出度くもなし。」今年もまた、年を取ってしまった。さて、焚書坑儒や万里の長城建設など、やりたい放題の秦の始皇帝(前259〜210)も、老いと死には勝てなかった。
 今から2200年前、日本が縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていたとき、秦の時代の中国に徐市(じょふつ)またの名を徐福(じょふく)(前278〜)というという方士
(※)がいた。徐福は始皇帝に、はるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があって仙人が住んでいる、そこへ不老不死の神薬を求めに行きたいと申し出た(『史記』秦始皇本紀二十八年(紀元前219)の条)。
 始皇帝は不老不死の薬を徐福に探しに行かせることにした。徐福は莫大な資金を費やして旅立ち9年が経過したにもかかわらず得るものなく帰国した。そのとき徐福は始皇帝に対し、大鮫に邪魔されてたどり着くことができないので、
射手を用意していただきたい(『史記』秦始皇本紀)。海中の大神は始皇帝の礼が薄いという理由で延年益寿の薬を取ることを許さない。良家の童男童女とさまざまな分野の技術者を連れてくれば叶うと言っている(『史記』准南・衡山列伝)。などと報告している。
 しかし、不老不死の薬を得たい始皇帝は、よろこんで童男童女3000人とさまざまな分野の技術者の集団・五穀の種子を徐福に託した。徐福は大船団を組織し再び旅立った。そして、
「平原広沢」を得て王となった。そして二度と秦には戻らなかった。

2.弥生をもたらした徐福
 東海に船出した徐福の大船団がたどり着いた「平原広沢」とは一体どこなのであろうか。実は
この「平原広沢」こそ我が日本であるともいわれている。徐福は中国を出るとき、五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出た。徐福が不老不死の薬を求めて海を渡った時代、日本は弥生時代初期にあたり、農耕のはじまった時期と一致する。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされるが、この稲作伝来に徐福が関わっているのではないかとも思え、徐福が日本の建国に深く関わる人物にも見えてくるのである。
 中国でいう「五穀」に稲は含まれないともいうが
(※※)、徐福の故郷では稲作が行われていたので、籾も五穀と一緒に携えていたのではないか。また、なぜ徐福はそんなに多くの子どもをつれて行ったのであろうか。ちょうどその頃、日本の人口は急激に増えている。

3.徐福は日本列島に対する最初の侵略者
 以上のことを総合して考えてみると、「始皇帝の政治に不満をいだいていた徐福は、最初から不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなく、東方の島への脱出を考えていたのではないか。」さらに、
「徐福らの大船団での旅立ちは一種の植民活動ではなかったのか。」と思えてくる。不老不死の薬を得る為なら大人が二三十人もおればよいのではないか、少なくとも子供を連れて行く必要性はない。さらに何で五穀の種や工人(機織り職人、紙職人、農耕技術者、木工技術者、製鉄技術者、造船技術者など)が必要なのか。少なくとも、ある一定の期間滞在することが前提にあったことは間違いなく、おそらくは半永久的に滞在することを目的としていたと思われる。元寇の時も元軍は日本に長期間滞在するつもりであったらしく、穀物の種や農機具を大量に携えていた。また、ヨーロッパで食い詰めた白人が新大陸に植民地を建設してその地の主になったように、徐福もまた当時の大文明国家である秦の圧政を嫌って、蛮人の住む島に植民し新たな国を建国しようとしたのであろう。「王国」を建設するのに必要な人材と技術を集め、始皇帝を偽って秦を脱出したのである。中国には、徐福=神武天皇とする説もあるという(※※※)
 始皇帝の統治下から逃避しようとした民衆の集団脱出事件の例は他にもある。「後漢書」の「東夷列伝」に「辰韓は馬韓の東にあり、その耆老世に伝えて自ら言う、古の亡人、秦の役を避け来る、と(辰韓は馬韓の東方に位置する。その地の耆老(※※※※)たちが代々いい伝えるところでは、自分たちは古の逃亡者の子孫で、秦の労役をのがれて韓の国へやって来たとき、馬韓がその東部の土地を割いて与えてくれたのだ、とのことである
)」とあり、「三国志」にも、「陳勝等起ち、天下秦に叛く。燕・斉・趙の民、朝鮮に避地すること数万口。(陳勝らが蜂起して国中が秦に背き、燕・斉・趙の民衆で朝鮮に逃亡した者は数万人におよぶ。)」とある。
 しかし、植民される側の列島の蛮人すなわち
原住の縄文人サイドから表現すればまさに武装難民による侵略以外の何者でもない

4.徐福は「伝説」か
 『史記』は司馬遷(前145頃〜前86頃)によって著された中国のもっとも古い歴史書で、歴史的信憑性が高く学術的権威をもつ大著である。記事や伝承の内容を著者司馬遷自身が現地を訪れ確認した上で収録している部分が非常に多く、そのため極めて真実性に富んだ史書とされている。徐福の話は司馬遷が生まれるほんの数十年前のことであるが、司馬遷は甲骨文の発見などの考古学的証拠によって歴史的実在が確実とされている殷王朝(前1600?〜前1046?)の王統譜を正確に記述しているのである。どうして生まれる千年も前の歴史が事実で、高々七十年前のことが「伝説」でなければならないのか。司馬遷は当然現地を訪れ徐福の事件の信憑性を検証したに違いない。『史記』には「徐市(じょふつ)は斉(せい)の国琅邪(ろうや)の人なり。」と記載されている。『史記』の後も『漢書』の「郊祀志」および「伍被(ごひ)伝」、『三国志』の「呉志」および「孫権伝」、『後漢書』の「東夷列伝」、さらには『三斉記』『括地志』『太平御覧』『太平寰宇記』『山東通志』『青州府志』など、幾多の時代を通じ、中国の歴史文献に絶える事なく記載されている。これだけでも徐福が歴史的実在であることに何ら疑問の余地はないのだが、最近の中国側の調査で徐福が決して「伝説」などではないことがさらに盤石となった
 1982年6月、「中華人民共和国地名辞典」の編纂作業を行っていた、徐州師範学院地理系教授の羅其湘氏は、江蘇(こうそ)省・かん楡(ゆ)県の地名の中に「徐阜(じょふ)村」という地名を発見した。今更地名が発見されるところに中国らしさを感じるが、同氏は、この村が清朝乾隆(けんりゅう)帝以前には確かに「徐福村」と呼ばれ、「徐福」の伝承が残っている事をつきとめた。その後、プロジェクト・チームが現地に入り、村に残る「徐副廟」を調査した。そして古老の語る次の伝承を採録した。

「徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。『私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや「徐」姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう「徐」姓は名乗ってはならない。』それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」

 さらに、中国の研究者が膨大な家譜によって徐福の家系を究明した結果、徐福は三千年前に栄えた徐国の偃王から二十九代目の後嗣にあたる中国屈指の名門の出であった。「徐市」の名が記された家譜を持つ徐氏一門が、今日なお中国全土に健在である事も判明している。造船所の遺跡、山東省黄県には「登瀛門」という、徐福が三神山のひとつ温洲へ向かった地点とされる遺跡なども見つかった。徐福が実在の人物であることを疑う者は今や皆無であろう。

5.「平原広沢」は本当に日本か
 日本に徐福がたどり着いたのであれば、中国の史書の中に徐福日本渡来説が明記されててもよいが、そのような記述はない。『古事記』や『日本書紀』以下の六国史にも徐福の記述はない。
 徐福の渡海から1200年ほどが経過し中国で徐福の日本渡来説が現れはじめる。釈義楚の『義楚六帖』によると、顕徳五年(958)日本僧弘順大師が、「徐福は各五百人の童男童女を連れ、日本の富士山を蓬莱山として永住し、子孫は秦氏を名乗っている。」と伝えたとある。
 遣唐使や留学僧が中国へ渡って行き、中国からも多くの渡来者があった。そうした往来の中で、日本の書物の中にも徐福の日本渡来説がいつしか記され定説化していった。弘安二年(1279)に来朝して、帰化した宋僧の無学祖元禅師は、紀州熊野を徐福上陸の地として、詩を詠んだ。また、洪武九年(1376)、日本の禅僧絶海中津は明の太祖洪武帝に謁見し、熊野の徐福祠について尋問され、詩を吟じ合っている。江戸時代、正徳五年(1715)漢方医の寺島良安が著した『和漢三才図絵』「蓬莱山」の条には、徐福は富士・熊野・尾張熱田を歴訪したのだろうと記されている。このように徐福日本渡来説はつぎつぎと日本各地に伝播されていった。
徐福の実在については確実であるが、本当に徐福は日本に渡来したのであろうか。

6.日本各地に残る徐福渡来伝説地
 東シナ海を出た船は黒潮か対馬海流に乗れば日本海沿岸、太平洋沿岸のどこかにたどり着く。ある船は対馬海流に乗って東北地方まで、またある船は黒潮に乗って熊野灘に面した紀伊半島や伊勢湾・三河湾、遠州灘に面した地域や伊豆半島、八丈島などにばらばらに流れ着いたのだろうという。
 今日我が国に残る「徐福伝説」は、全国各地におよんでいるが、この内
最も可能性が高そうな候補地は、和歌山県新宮市と佐賀県の佐賀平野であろう。両地とも相当古くからこの伝説が存在する。

日本海側
青森県 小泊村
秋田県 男鹿市
京都府 伊根町
山口県 豊浦郡 豊北郡 土井が浜

太平洋側
東京都 八丈島
東京都 青ヶ島
山梨県 富士吉田市
山梨県 河口湖町
山梨県 南都留郡 山中湖
静岡県 清水市 三保松原
愛知県 宝飯郡 小坂井町
愛知県 名古屋市

三重県 熊野市
和歌山県 新宮市
高知県 佐川町
宮崎県 宮崎市
宮崎県 延岡市

瀬戸内海
広島県 宮島町 厳島
山口県 上関町 祝島

東シナ海側
鹿児島県 種子島
鹿児島県 屋久島
鹿児島県 坊津町
鹿児島県 串木野市
佐賀県 杵島郡 山内町
佐賀県 武雄市
佐賀県 諸富町寺井津
佐賀県 佐賀市 金立
佐賀県 富士町 古湯
佐賀県 神埼郡 吉野ヶ里遺跡
福岡県 八女市 山内
福岡県 筑紫野市 天山

7.朝鮮の徐福伝説
 朝鮮にも徐福伝説は古くから伝わっている。済州島の徐福伝説は、歴史書の中に記述はなく、伝説でしかないという扱いを受けているようである。しかし済州島には古くから徐福渡来説がある。朝日が上がるのを見た
徐福が、無事に到着したことを記念して海辺の岸壁に「朝天」という文字を刻み入れたと言われる朝天浦、西帰市の海岸にある「正房瀑布」という滝などである。童男童女を連れた徐福の一行は、三神山のひとつ瀛州(済州島)の漢拏山に上陸し、自生している不老草「岩高蘭」を捜した。しかし、結局は見つけられないままこの地を去る時、正房瀑布に心打たれ、絶壁に「徐市過此[徐福(徐市)がここを通った]」という言葉を刻して、惜しみながら西方の日本へ向かったという。済洲島には「西市過此(中国語で西市と徐市は同音)」の地名が残っている。
韓国 済洲島 徐福通過遺跡
韓国 南海島 徐福通過遺跡

8.おわりに
 日本の古代史に興味がある人でこの「徐福伝説」を知らない人はいまい。特に縄文から弥生時代への変遷が如何に行われたのかに関心の深い人にとっては、徐福集団が本当に日本にたどり着いたのかどうかに大いに興味があるはずである。徐福の実在は疑いないものの徐福がどこに着いたのかについての確証はない。しかし、
徐福集団が日本に到達したと仮定すると、列島における稲作文化、金属器文化、戦争文化の急激な波及など縄文から弥生への激変が無理なく説明出来るのも確かである
 筆者としては渡来系の人骨のみが出土している吉野ヶ里遺跡を持つ佐賀県が最もよい候補地と考えている。しかしながら、徐福が渡来しているにしては「漢字」が発見されていない。それどころか弥生時代の遺跡から漢字はほとんど発見されていない。しかし、逆に言うと漢字が渡来していたことについて誰しも異論のない古墳時代の墳墓からも例外的に銘入り鉄剣が出ているくらいでほとんど漢字はないから、敢えて書かれた文字を残さなかったのかも知れない。

(※)方士:道教の仙術をおこなう人。不老長生術の呪術師・祈祷師・薬剤師を兼ねた者。医薬・天文・占術その他の諸学に通じた学者。

(※※)五穀:『荘子』疏には、「五穀者、黍稷麻菽麦也。(五穀とは,黍稷麻菽麦である。)」とあり、『四書章句集注』の『孟子集注』の朱子の解釈によれば「五穀、稲、黍、稷、麦、菽也。(五穀とは,稲、黍、稷、麦、菽である。)」としている。
ちなみに『古事記』の五穀とは米、麦、粟、小豆、大豆であり『日本書紀』では米、麦、粟、稗、豆である。

(※※※)衛挺生(中国)『徐福入日本建国考』
      彭雙松(台湾)『徐福即神武天皇』

(※※※※)耆老:夷蛮の老人あるいは知識人

原資料・・・但し、読み下し文に自信なし。
「史記」秦始皇本紀(前219年)
齊人徐市等上書言、海中有三神山、名曰蓬莱、方丈、瀛洲、僊人居之。 請得齋戒、與童男女求之。
薺の人徐市ら書を上って言う、海中に三神山あり、名づけて蓬莱、方丈、瀛洲と曰い、仙人これに居る。請う、斎戒して、童男女と之を求むることを得ん。

「史記」秦始皇本紀(前212年)
徐市等費以巨萬計、終不得藥。
徐市ら費すこと、巨万を以て計うるも、終に薬を得ず。

方士徐市等入海求神藥、數歳不得、費多、恐譴、乃詐曰: 「蓬莱藥可得、然常為大鮫魚所苦、故不得至、願請善射與倶、見則以連弩射之。」
方士徐市ら海に入りて神藥を求む、數歳得ず、費え多し、譴められんことを恐れ、乃ち詐りて曰く: 「蓬莱の薬得べし、然れども常に大鮫魚の苦しむ所と為る。故に至ること得ぎりき。願わくは善く射るものを請いて与に倶せん。見われなば、則ち連弩を以て之を射ん。」

「史記」淮南衡山列傳
又使徐福入海求神異物。還為偽辭曰: 『臣見海中大神、言曰: 「汝西皇之使邪」 臣答曰: 「然」 「汝何求」 曰: 「願請延年益壽藥。」 神曰: 「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」 即從臣東南至蓬莱山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰: 「宜何資以獻」 海神曰: 「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」 』 秦皇帝大説、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。
また徐福をして海に入り神に異物を求めしむ。還りて偽辭をなして曰く: 『臣海中に大神と見える。言いて曰わく: 「汝は西皇の使か」と。 臣答えて曰く: 「然り」 「汝何を求むや」 曰く: 「願わくは延年益壽藥を請う。」 神曰く: 「汝秦王の禮薄し、觀るを得るも取るを得ず。」 即ち從いて臣東南蓬莱山に至り、芝成宮闕を見る、使者あり銅色にして龍形、光上って天を照らす。是において臣再拜して問いて曰く: 「宜く何を以って獻に資すべきや」 海神曰く: 「令名男子若しくは振女と百工之事を以てせば、即ち之を得ん。」 』 秦の皇帝大に説び、振男女三千人を遣わし、之に五穀の種、種百工を資して行かしむ。徐福平原廣澤を得、止りて王となりて來らず。

「漢書」 列傳 カイ伍江息夫傳第十五 伍被(一世紀)
又使徐福入海求仙藥、多齎珍寶、童男女三千人、五種百工而行。徐福得平原大澤、止王不來。
徐福をして海に入り、仙薬を求めしむ。多く珍宝・童男女三千人、五種・百工を薺して行かしむ。徐福は平原大沢を得、止まりて王となりて来らず。

三國志「呉書」呉主權(一世紀)
亶洲在海中、長老傳言、秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海、求蓬莱神山及仙藥、止此洲不還。世相承有數萬家。
亶洲は海中に在り、長老傳えて言う、秦始皇帝、方士徐福を遣わし、童男童女数千人を率いて海に入り、蓬莱神山及び仙薬をもとめしむ。亶州にとどまりて還らず。世々相承けて数万家あり、と。

釈義楚「釋氏六帖」(又名「義楚六帖」)五代後周・顕徳元年(954)成立
日本國亦名倭國、在東海中。秦時、徐福將五百童男五百童女、止此國、……又東北千餘裏、有山名富士亦名蓬莱……徐福至此、謂蓬莱、至今子孫皆日秦氏。
日本國またの名を倭國は、東海中にあり。秦の時、徐福五百の童男、五百の童女を將いて、此國に止る、……また東北千餘裏に、山あり、名づけて富士、また名づけて蓬莱……徐福ここに至り、蓬莱という、今に至って子孫皆秦氏という。



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