鬼とは何か 鬼

1.鬼だらけの国日本
 「渡る世間に鬼はない」という諺があるが、
日本は鬼だらけの国であった。「仕事の鬼」やら「将棋の鬼」、「野球の鬼」、「鬼嫁」に「鬼婆」などなど、まさしく「渡る世間は鬼ばかり」であったのだ。「鬼の目にも涙」、「鬼に金棒」、「心を鬼にする」などの言い回しが広く使われることでも分かるように、鬼は身近に存在した。
 日本の昔話のうち鬼のでないものはほとんどないのではないかと思うくらい、昔話に鬼はつきものである。さらに『今昔物語』などの説話集にも鬼は登場する。日本人は昔から鬼と隣り合わせに暮らしてきたのである。

2.鬼の力
 昔話では、大きな図体を持ち、頭に角のある力の強い赤鬼やら青鬼が描かれている。鬼の持つ力とはいかなるものか。昔話のなかの鬼はよく「人を喰う」し「人に化ける」。仏教において、地獄にいる羅刹鬼が人間を喰うことから導かれているのかもしれない。とにかく
鬼は凶悪で有害な恐るべき存在であった。
 鬼はどこで手に入れたのか
宝物をいっぱい持っている。魔法の道具はたくさん持っている。遠くへ移動することができる「千里のくつ」、身長を伸ばせる「打ち出の小槌」に生死を思うままに操る「生き棒・死に棒」、姿を隠せる「かくれ蓑」、どこまでも遠くを見渡せる「千里眼」等々。しかし、どういう訳か鬼はいつもこれらの宝物を人間に奪われてしまうのである。反対に人間の方はそのおかげで幸せになれる。

3.鬼の弱点
 大男で力も強く人間に恐れられているはずの鬼だが、結構弱点も多い。お天道様にすこぶる弱く朝が来ると逃げ出すし、なぜだか「菖蒲」に弱かったりする。第一鬼は「頭が弱い」のである。いつも鬼は「人間の知恵」に負かされてしまうのである
。結局のところ鬼は痛みも感じれば、恐怖心も抱く、マヌケでおおらかな弱点だらけの、人間とさほど変わりない存在なのである。
 鬼は昔話の中では、いつも脇役である。鬼の力、宝、恐ろしさは、鬼を退治する人間の人間の知恵を賞賛するための道具にすりかえられてしまっている。鬼が巨大で荒々しく、強く凶悪であればあるほど、鬼を退治した主人公たちの武勇がたたえられ、それゆえ鬼は脇役として簡単に人間に負けたり、だまされたりするのである。
 鬼が人間に簡単に負け、だまされ、さほどの理由もなく退治されてしまうところに、その姿、形とはまるで正反対の、
気が良く、単純で、おおらかで間のぬけた鬼の真実の姿をみる。それは、博打を打ちながら、酒を飲み、踊りの好きな鬼の姿も多いことからも言えるのではなかろうか。「狂言」や『お伽草子』に描かれる鬼は、どこかにくめない。鬼が人間の生活と同じ営みをする、これもまた、昔話の中で鬼の存在が語りつがれてきた原動力なのかもしれない。柳田国男は、「昔話の天狗、狐、鬼も、山姥も、皆少々、愚かで弱く、伝説の方では、常に強豪で、人を畏服せしめる。」と述べている。

お人好しの鬼

4.騙されやすい鬼
 ♪山に住んでた赤鬼は人間になりたいなりたいと〜〜・・・
人間になりたい鬼に対し神様が夜明けまでに100段の階段を作れば人間にしてやるという。鬼は99段まで積み上げて眠ってしまい、やがて夜明けとなって結局鬼は人間になれなかった。人間達の役に立つことによって人間の仲間入りをしたい鬼とその心情を巧みに利用して鬼に奉仕させる人間。しかし結局、
鬼は鬼でしかなく人間の仲間に入れてもらえなかったのである。

5.鬼のすみか
 昔話に出てくる鬼のすみかは「鬼ケ島」、または「山の中」と大概相場が決まっている。柳田国男は『山人考』において、「上古史上の国津神が二つに分かれ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入り又は山に留まって山人と呼ばれたと見る。」と述べている。馬場あき子は、「彼らが純粋に山岳部だけを跋渉して生きたことはなお疑わしいとしても、本拠を山に置き、鬼と呼ばれつつ生活の場を持っていたことはいわゆる〈もののけ〉的鬼や呪術の世界に跳梁する鬼とはまったく別種の鬼であったことはたしかである。彼らは生活のすぐ隣に棲んでいた鬼であり、同時に人間界の秩序とは没交渉の、別個の規約に統制されていたと考えられる。」としている。
 鬼ヶ島はどこにあるのか。『桃太郎』が鬼ヶ島へいったときも海を渡る話はない。ヤクザの「島」ではないが、島とは「一定の領域」のことであると本居宣長もいっている。だから海に浮かぶ島を「海島」という場合がある。「敷島」も奈良盆地のある地域を指すのが原義である。それゆえ、鬼の棲み家や場所を総称して鬼ヶ島と呼んだのではないかと推測される。
「鬼ヶ島」は普通の人々の住んでいる場所とは違う場所である。そして不思議なことに「鬼ヶ島」には必ず宝物があるのである。鬼の住処は、恐ろしい場所である反面、宝の溢れる場所でもある。

6.鬼とは何か
 源順(みなもとのしたがう)が著したわが国最初の辞書『倭名類聚鈔』によれば、「鬼ハ物ニ隠レテ顕ハルルコトヲ欲セザル故ニ、俗ニ呼ビテ隠ト云フナリ」、と解説されている。「オニ」という国語は、隠(オン)という字音から導かれたという。
 それにしても鬼(キ)と書いて「オニ」と読むのは如何なる訳か。いうまでもなく鬼(キ)は中国語である。「鬼」という字は、もともと死体の象形文字で、そこから死者の霊魂を指すようになった。だから人が亡くなることを鬼籍に入るというのである。もちろん、中国語の鬼のイメージには、日本のように角をはやし虎のパンツをはいた赤鬼・青鬼といったイメージはない。
 古来、日本においては、「鬼」=「オニ」ではなかった。仏教経典を通じてのインドの夜叉、羅刹・羅刹婆、餓鬼、地獄の獄卒などと中国的な鬼とが混同され、さらに
丑寅の方(北東の方角)に鬼の居場所があるという陰陽道の説から、牛のように角をはやし虎のパンツをはいている鬼のイメージができあがったと思われる。折口信夫は、「畏るべきもの」という共通点から、オニをカミとも言う場合があったのではないかと推測している。実際、鬼と書いてカミと読む場合がある。『日本書紀』『万葉集』などでは、鬼は「もの」「しこ」「かみ」「おに」などと、場合に応じて読み分けられている。馬場あき子は、『日本書紀』景行紀に、「山に邪しき神あり、郊(のら)に姦(かだま)しき鬼あり」と記されていることから、鬼は邪神と対をなしている同じ系列のものとして認識されているといっている。『民俗学事典』によれば、「鬼は山の精霊、荒ぶる神を代表するものの一呼称であった」のではないかとされている。
 文献上に「鬼」の字が初めて現れるのは、『出雲国風土記』の、大原郡阿用郷の名称起源の説明で、「昔或人、此処に山田を佃(つく)りて守りき。その時目一つの鬼来りて佃(たつく)る人の男を食ひき」と書かれている。『日本書紀』斉明紀に、朝倉山の上から「鬼」が笠を着て斉明天皇の喪の儀を見ていたという記事がある。

7.鬼の種類
 「鬼」の持つイメージには大別して三つある。一つは
仏教的な鬼であって、「悪」や「恐怖」のイメージである。仏教系の鬼には、牛頭鬼や馬頭鬼、羅刹女などがあり、鬼に出会ったという話がたくさん残っている。地獄の獄卒である牛頭鬼、馬頭鬼は出会えば必ず理由なく人を殺す。これはもともと、罪深い人間を脅すための演出であった。仏教系の鬼は類型的で、因果応報の仏罰と仏や経文の効能を広く世に伝えるための材料として登場する。
 次に、
生身の人間でありながら「鬼」と呼ぶ他はない人々である。松谷みよ子によれば、「鬼は、容姿のうえでは架空の存在であるが、もっている性格・行動などには、人間そのもののイメージが重なっているのではないか」という。個人的な恨みや憎悪から、生きながら「鬼」となって怨恨をはらす人々。さらに王朝の繁栄のために犠牲となり世の暗闇に破滅していった「まつろわぬ」闇の世界に棲む人々。例えばゲリラ的盗賊集団の首領、大江山の鬼「酒呑童子」である。馬場あき子は、「常人の知識をこえる不測の行動は、その敏捷果敢さとともに、彼らのもっとも誇りとするところであり、彼らはまさに王朝の政治の暗黒に乗じて生きた鬼の一大典型であった。」といっている。
 そして、もう一つは
昔話に出てくる鬼。どこか間が抜けていて騙されやすく、陽気でユーモラスなイメージである。

8.鬼の源流
 
筆者は現実の世に「鬼」として扱われていた人々がいたと思う。普通の人間の住んでいる場所とは違う一定の区域を住処とし、恨みを抱き、悪とされ、恐怖の対象であった人々。しかも、酒と踊りが好きで、素朴で騙されやすく、はては「宝」をとられ征伐されてしまう人々。彼等こそ「鬼」と呼ばれた人々である。そのような要素を兼ね備えた人々が実際に存在したのか。存在したとしたらそれは一体誰か。
 「鬼」とは、大和朝廷によって抹殺された者たちであると思う。土蜘蛛は神武天皇東征のとき、吉野山中に穴居し水銀を採取していた。倭建命(日本武尊)によって征伐された熊襲建や出雲建は朝廷支配下の「普通の人間」が住まないところに住んでいる。そして日本武尊を簡単に信頼し、まんまとその罠にはまって亡んでいった「素朴」な人間であった。同じく北の蝦夷達も異国に住み「悪人達」であり「強く」「恐ろしい」人々であるわりには、あっさりと征服されてしまう。しかも「宝物」を持っているのである。彼等こそ鬼の要素を具備した人々といえる。
 大和朝廷は自らと対立する列島の先住民たちを「蝦夷」「土蜘蛛」「隼人」等と呼び、あるいは懐柔しあるいは策略を用いそしてある時は武力を以て征服していった。とくに大化の改新(645年)以降、大和朝廷は奥羽に住む縄文人としての特徴を色濃く持ち言語も風俗も異なった「蝦夷」の征伐にのりだす。朝廷にとって先住民族である蝦夷は、滅ぼすかしない「鬼」であった。阿倍比羅夫の東北遠征(656年)から蝦夷対大和の戦いが何度も繰り返され、桓武天皇の時には、
征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷討滅の最後の決戦に臨むべく大軍を率いて、蝦夷の王「阿弖流為ーアテルイ」を攻め立てた
 3千から5千の戦力で5万、10万の朝廷軍と互角に戦ったアテルイも結局802年(延暦21年)に投降した。田村麻呂の助命の約束は反故にされ、朝廷はアテルイの首をはねた。アテルイは「鬼」や「悪路王」として、朝廷にはむかう「大悪人」となった。奥羽地方の砂金を始めとする「宝」が朝廷のものになった。
蝦夷の大王アテルイこそ日高見の「鬼」である。

悪路王アテルイ ←悪路王(アテルイ)の面


相原友直が著した『平泉雑記』巻之四、鬼切部(三十五)には、「奥州観音ノアル處、多クハ田村ノ舊蹟ニシテ鬼ノ事實アリ、實ハ蝦夷ニシテ其容貌人ト異ニ、暴虐ニシテ世人ヲ悩スニ依テ鬼ト呼来レルニヤ」とあるそうである。(「義経伝説」

8.鬼の末裔
 弥生人が縄文人を征服し、日本に統一国家ができたのは、4世紀から6世紀にかけての古墳時代である。そして、支配者になった弥生人のもつ北方系の顔は人相のよい顔とされ、虐げられた南方系の縄文人の顔は鬼の顔になった。世界中に征服された先住民がコビトや、妖精になる話がある。修験道の開祖である役小角にしたがった前鬼、後鬼も、先住民の末裔であったにちがいない。
 平安時代の中頃から武士が台頭する。梅原猛は
「武士は、もともと狩猟採集を業としていた縄文の遺民とみてまちがいないであろう。(※)「関東は縄文文化の影響が強く、関東人は縄文人がそのまま農耕化したという自然人類学の学者の説もある。」そして、「中世とは人間的にも文化的にも縄文的なものの最盛の時代なのである。」といっている。武士もまた「鬼」の末裔である。
 東北の日高見の国を屈服させた朝廷は、全国各地に投降帰順した蝦夷である「俘囚、夷俘」の人々を集団的に移住させた。歴史研究家・菊池山哉氏は、明治時代に全国215か所の別所地名を調査、分析し「別所は俘囚 に移配地である」という説をとった。そして、別所の特徴として、東光寺、薬師堂、本地仏十一面観音の堂社(白山神社など)を祀り、慈覚大師円仁の伝承があると言う。別所各国の国府や郡家に近接して存在することが多い。八切止夫は菊池山哉の説に再び光を当てた。在野の古代史研究家・柴田弘武氏は、菊池説を発展させ『鉄と俘囚の古代史−蝦夷「征伐」と別所−』で、別所とは蝦夷の俘囚を配した製鉄遺跡であるとして全国各地の例を挙げている。
 別所という地名起源については「仏教諸宗の修学・修行に不満を抱く聖たちが、本寺を離れた別の場所に隠遁して、それぞれ集団を結んだ場所」( 『岩波仏教辞典』 )というのが通説である。柴田弘武氏は全国550余か所の別所地名を訪ねて分析、「本寺を離れた修行僧の隠遁地」とするだけでは説明できない所が多いという菊池説を裏付けている。柳田国男は別所の人々が山の者、谷の者、峡(カイ)の者等とも呼ばれたという。
 日蓮聖人は、貞応元年(1222年)に安房国長狭郡東条郷小湊の漁村に、三国大夫(貫名次郎)重忠を父とし、梅菊女を母として生まれた。自身の出生について、「日蓮今生には貧窮下賎の者と生まれ旃陀羅(せんだら)が家より出でたり」(佐渡御書)「日蓮は安房国東条片海の石中(いそなか)の賎民が子なり」(善無畏三蔵抄)等と述べている。日蓮聖人は小湊西蓮寺で養育された。小湊西蓮寺は、山号が東光山で、本尊は薬師如来、そして東国に観音、薬師信仰を広め、先住民を教化した慈覚大師円仁が開基である。西蓮寺こそ安房国別所の重要拠点であったと考えられる。
この先住民たちこそが日蓮聖人の言う「旃陀羅」であろう
 出雲大社近くの安養寺に、有名な出雲阿国の墓がある。歌舞伎の創始者といわれ、サンカのエラギ(芸能)の源流ともされる阿国も「鬼」と呼ばれた蝦夷の末裔かもしれない。

9.鬼は亡んだか
 馬場あき子は、「反体制、反秩序が、基本的な鬼の特質であるとすれば、近世の封建的社会体制の確立しゆくなかで、当然、鬼は滅びざるを得ないものであり、そして滅びたといえよう。」という。
 古来、人々は、世の悪に対する怒りの気持ちを鬼に託していた。
最近の日本には、権力者の暴走を止め支配者と対峙する「鬼」ではなく、「Panem et circenses.パンとサーカス(※※)」に踊らされる大衆しか存在しなくなってきている。「鬼」的な潜在エネルギー「鬼」が醸し出す緊張感を失った日本は文化的創造力を失い弱体化していくのではないか。日本文化に喝を入れこの国を元気にするためには、いまこそ鬼の復活、復権を図るべきであるといえよう。

(※)「近年、発生当初の武士は、特殊軍事貴族・俘囚・狩猟民など殺生を業とする諸身分の複合体として登場し、平安末期以降に地方領主として所領経営者の性格をも備えるようになるとみる考え方が有力である」
−−『日本史広辞典』山川出版社

(※※)ローマの体制側が民衆を手なずける方法として、物質的な豊かさ(パン)と娯楽(サーカス)を提供したこと。

参考文献
鬼の研究』 馬場 あき子、ちくま文庫
『日本とは何か』 梅原猛、NHKブックス
鉄と俘囚の古代史 増補版―蝦夷征伐と別所(増補版)』 柴田弘武、彩流社 (1989)
別所と俘囚(覆刻版)』 菊池 山哉、解説:塩見鮮一郎、批評社(1996)



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