2011/05/07〜2011/05/08
講中の皆様と京都・和歌山方面のお寺巡り <4/10>
 ■2011年07月02日
 
中村講中の皆様と和歌山方面のお寺巡り(^.-)☆(6)

 
「京都ししゅう美術館(八つ橋庵とししゅうやかた)」での昼食を終えますと、同じ京都市 内の『本法寺』にと向かいます(^.-)☆
 
 ■本法寺(ほんぽうじ)
 
 日蓮宗本山 叡昌山 本法寺
 京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町617
 
 本阿弥光悦作庭の枯山水庭園「三つ巴の庭」で知られる本法寺は、日蓮宗京都十六本山の一つ。
 開基は信仰規範の不受不施(ふじゅふせ)唱えた日親(にっしん)上人で、一条戻り橋の袂の立って辻説法を始めてから9年目の永享8年間(1436)、東洞院綾小路(四条烏丸の東南辺り)に建立されたのに始まる。
 
 法華の行者としての強い自負と信念をもつ日親は、永享11年(1439)、三代将軍足利義教(よしのり)の屋敷へ訪ね、諌暁(かんぎょう) を図る。諌暁とは、「諫め諭す(いさめさとす)」という意味で、将軍義満に「世の中が乱れているのは法華経を信仰していないから」と法華経受 持を説いたのである。驚いた幕府は諌暁を禁止する。それでも日親は諦めることなく、翌年、諌暁書「立正治国論」を著したため怒りに触れ、寺を焼かれ、投獄される。投獄された牢で、日親は危険人物と火あぶり・鞭打ち・焼き鍋を頭に被せるのどの拷問を受け、改宗を迫られたが信念を変えることは無かった。このことから、後に“鍋かぶり日親”と称されている。
 
 嘉吉元年(1441)、赤松満祐(あかまつみつすけ)の謀反で義教が殺されたことで日親は赦免される。出獄後、獄中で知り合った本阿弥清信 (法名本光)の絶大な帰依を受け、本法寺を再興する。後に本阿弥家の菩提寺となる。
 
 天文5年(1536)、本法寺は、「天文法華の乱」で他の法華宗寺院と同じく、一時期和泉(大阪)の堺へ避難するが、法華(日蓮)宗本山の 帰洛が許され一条堀川(現晴明神社あたり)に再建。更に天正15年(1587)、豊臣秀吉の聚楽第造営にあたり、強制的に替地として与えられ た現在地へ移転している。このとき、移転工事を監督したのが本阿弥光悦。その後の天明8年の大火により堂宇の殆どを焼失したが、暫時再建され 現在の堂宇となっている。
 
 本法寺の見所は、本阿弥光悦作とされる枯山水庭園「三つ巴の庭」。書院の東側を主体に南側へかぎ型になっている。東南隅部分枯れ滝石組みが 主役。書院東側の縁先近くの石囲いの蓮池も特徴的デザインである。本阿弥家は、代々刀剣の鑑定や研磨を業とする家系。本阿弥清信(清延とも) の孫が光悦。光悦(1558〜1637)は書画や工芸に秀でた芸術家。徳川家康から鷹峰一帯の地を寄進され、広大な芸術村を造営。また先祖の 菩提をとむらう光悦寺も建立している。本法寺の墓地には、本阿弥家一族や長谷川等伯らの墓がある。また、展示館では長谷川等伯筆による総丈約10mの「佛涅槃図」(重文)の複製品のほか什宝を見ることが出来る。
 
 本法寺の表門が面する小川通には、茶道の表千家・不審菴、裏千家・今日庵や茶道具・茶器を売る店が並ぶ。表千家は千利休(1522〜91) の子の少庵が千家再興を許されたとき、利休の不審菴をこの地へ移建し「表千家」とした。
 
 表門は紀州家からの譲り受けたのもで、内側は国指定の名勝庭園となっている。この表千家の北側(本法寺表門の向正面になる)に在るのが「裏千家」。千少庵の子の宗旦が表千家の裏に隠居所を立てたのが始まり。一間腕木門の内側は国指定の名勝庭園である。この裏千家・今日庵の背後 (東側)に、日蓮上人の孫弟子、日像(にちぞう)が創建した、京都における日蓮宗の最初の寺院として知られる妙顕寺がある。
 
 小川通をさらに南へ徒歩4〜5分程の所、武者小路通東入るに武者小路千家・官休庵がある。武者小路千家は三千家のひとつで、千利休の孫、一 翁宗守(いちおうそうしゅ)の子孫が受け継ぐ家元。寛文7年(1667)、宗守が仕えていた高松藩を辞したとき造られたので官休庵という。
 
 …と、こんな由緒のあります本法寺。
 仲々立派なお寺でありました。
 
 展示館には長谷川等伯筆による総丈約10mの「佛涅槃図」(重文)の複製品がありましたけど、これまた大変立派なモノでありました。
 写真撮影は勿論禁止で、これが残念でありましたが…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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