2011/05/07〜2011/05/08
講中の皆様と京都・和歌山方面のお寺巡り <6/10>

 

   

宴会終了後、「季楽里龍神」の1階フロアで撮りましたものなんです。ウッド基調で、仲々落ち着きを感じさせます建物でありました(^.-)☆

 

 

   

 

 ■2011年07月15日
 
中村講中の皆様と和歌山方面のお寺巡り(^.-)☆(10)

 
旅に出ますと早朝散歩は欠かせませんGONsanですから、翌朝はA.M.4:00に起床。
 前夜に“明日は5:00起きで早朝散歩を…”と目論んでいたのですけど、う〜ん、アラームの設定を1時間間違ってしまいました。
 で、どぅしたものかと暫し思案のあげく、結局、そのまま起きまして洗顔後いざ早朝散歩にと出発となりました(^-^)
 
 が、こんな時間ですから外はまだ真っ暗(^-^; 何にも見えません。それに秘境の温泉地ですから周辺には何にもありませんかも…
 とにかく散策開始です。
 
 すると、早速、眼に入りましたのが「皆瀬神社(かいぜじんじゃ)」。
 何となく由緒ありそうな神社なのですけど、詳細は不明。
 で、後日、WEB上で検索してみましたら、こんな記載がありました(^.-)☆
 
 ◇和歌山県田辺市(旧龍神村) 皆瀬神社(かいぜじんじゃ)
 
 □汎論
 
 皆瀬神社の創祀は、長禄二年(一四五八)、龍神一〇代の龍神正直が勧請し、文明年間(一四六九−一四八六)に龍神正が建立したと伝える。明治四十二年(一九〇五)の神社合祀令により、龍神地区およそ二〇社が当地に合祀された。
 山峡の龍神温泉は古くから知られる。あまり熱くないが、飛鳥時代後期(六九七−七〇七)に役ノ行者、役の小角(えんのおずぬ)によって発見されたという。
 龍神湯本にある温泉寺は、弘仁年間(八一〇−八二四)に、弘法大師の発願により建立されたといわれる古刹で、十五世紀の作と推定される薬師如来像と脇侍日光、月光両菩薩立像が伝わる。
 
 龍神は、歴史の上では隠れ里でもあった。龍神の小森には「お屋敷跡」と呼ばれる地がある。平維盛(たいらのこれもり)が寿永三年(一一八四)に、富士川、木曽川の合戦に敗れたあと、高野山を経てこの地に至り、住んだ屋敷跡だという維盛伝説にまつわる嘉門の滝、明神滝、お万ヶ淵、赤壷、白壷などがある。
 鵺退治(ぬえたいじ)で知られる源三位頼政は、源氏敗北のあとも京にのこり、
 
 たつきなき 拠るべなき身は 木の本に しいをひろひて 世をすごすかな
 
 と無聊を歌にしている。「椎と四位」をかけている。
 のちに以仁王の令旨を得て源氏の旗をあげたが戦に利なく頼政は氏の平等院で自害したのであった。その五男は、治承四(一一八〇)年、源頼氏が、龍神の地に落ちのびて館を構え、住んだ住居跡、また治承年中に武運を祈願して勧請した八幡社がある。
 しかし、捲土重来、頼政の悲願はついに平氏を壇ノ浦に打ち破る先鋒となったのであった。
 
 幕末、大和五条代官所襲撃によって、天誅組の狼煙が上がった、河内出身の伴林光平は年齢すでに五〇歳を過ぎていたが、伊丹郷町にあってひそかに同志を募ったが、その中核となったのは学問所伊丹明倫堂であり、学頭は沼田藩旧藩士の橋本香坡であった。
 
 吉田松陰、坂本龍馬、松林飯山、森田節齋、長州藩士、十津川郷士、藤井藍田その他多くの勤皇の志士が往来した。
 孝明天皇が天誅組と合流し、徳川幕府打倒の勢いは一気に高まったのだが、孝明天皇の挫折で一転して、多くの志士が追われる身となった。藤井藍田も吉野の鷲家口で討死している。
 龍神村に天誅組珥加担した同志、河内勢の水郡長雄ら八名は、十津川を経て小又川まで逃走したがついに力尽き龍神で紀州藩士にとらえられて蔵に幽閉された。その蔵は現存し和歌山県の史跡に指定されている。
 
 天誅組義挙といわれる。この流れが、倒幕へのきっかけとなり、鳥羽伏見の戦い、蛤御門の変、池田屋騒動、寺田屋事件などを経て、あと数年を待たずして、徳川は倒れ、明治維新を迎えたのである。
 
 …と、こんな皆瀬神社でありますが、分かったようなよく分かりませんような(^-^)
 
 まぁとにかく難しい事はあまり考えませんで、ひたすら散策あるのみのGONsanでありました(^-^)//"

  

 

 

 

   

  

 

 

 

 

   

 

  

 

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