2011/05/07〜2011/05/08
講中の皆様と京都・和歌山方面のお寺巡り <8/10>

 

 

 

 ■2011年07月25日
 
中村講中の皆様と和歌山方面のお寺巡り(^.-)☆(11)

 
2日目・5/8(日)は、A.M.8:00に龍神温泉を出発し高野・龍神スカイラインを走行し「高野山奥の院」へ。
 小雨がぱらつく中を“中の橋会館”前の駐車場に到着です。
 
 ここから奥の院弘法大師御廟には徒歩ですけど、はてさて、傘を持参しようか…どうしようか…と思案の皆様。
 結局、傘持参派、傘持たない派は半々でしたけど、GONsanは傘不要派でありました(^.-)☆
 
 奥の院までの往復はガイドsan付きでの歩行となりましたけど、ユーモア交えました軽妙な語り口のガイドsan。さすがプロのガイドsanならでのご案内で、仲々楽しい奥の院までの道のりとなりました。
 
 WEB上で検索しますと、高野山奥の院に関してのこんな記載が。
 
 ■高野山・奥の院
 
 高野山は、紀州「紀の川」の南方、海抜約900mの山上にあり、東西6km、南北3kmの、周囲を八葉蓮華になぞられた峰々に囲まれた、一大仏都である。真言宗の開祖空海(弘法大師)が、桓武天皇の勅許を得て、延暦23年(804)唐に渡り、唐の長安において、唐の国師である青龍寺恵果阿闍梨から真言密教を授かり、2年後帰朝してここに開山した。帰朝の船中から、師より授けられた三銛(さんこ:仏具)を空中に投げ、「伽藍建立の妙地を示し給え」と心に念じたところ、三銛は高野山の松の樹に掛かって、まばゆいばかりの光を放っていた。それを見た空海は、この地こそ真言密教の修禅にふさわしい地であるとして開山を決意した、と伝わる。
 
 そして弘仁7年(816)太政官符をもって高野山の地を下付され、翌弘仁9年、空海は高野山に登り七里結界の法を修め、現在の大塔の地を中心に伽藍地鎮の式を執り行い、大塔・金堂をはじめ諸堂、僧房の建立を開始し、伽藍を中心とした一山を「金剛峯寺」(こんごうぶじ)と命名した。密教とはその名の通り秘密の教えである。一般には公開されない秘密の教えを含んだもので、一人の師匠にただ一人の弟子がついて教えを請い、遣唐使で唐に渡って密教を学んだ空海は、帰国後、密教を体系的に整理し「真言宗」を一般の人々に広めた。
 
 高野山は、遣唐使として唐へ渡った空海(弘法大師)が開いた真言密教の根本道場である。高野山は和歌山県伊都郡高野町にあり、町全体は山に囲まれている。国道24号線から高野山道路を登っていくと、大門に始まり金剛峰寺を経て空海の眠る奥の院御廟まで、道路の両側に寺院が建ち並ぶ。標高800メートル、周囲を深山に囲まれ東西5.5キロ、南北 2.3キロの山上盆地だ。弘法大師・空海は20歳で出家し、31歳の延暦23年(804年)、唐に渡り、都・長安で恵果和尚より正統密教をきわめ、8人目の阿闍梨遍照金剛の称号を得、大同元年(806)に帰国してから、真言密教を全国各地に広めた。日本のあちこちに弘法大師逸話が残っている。
 
 嵯峨天皇より高野山を賜り弘仁7年(816)開山、これが高野山金剛峯寺の初めと言われている。それから20年後、大師は62歳の承和2年(835)3月21日に入定し即身成仏となり、今も奥の院御廟に葬られている。
 
 空海の死後も、高野山自体は勢力を伸ばし、戦国時代には相当の所領(約16万石)を有した寺領権力となった為、織田信長はこれを焼こうとしたが果たさずに本能寺で果てた。高野山は豊臣秀吉に屈し、所領2万石33万坪を安堵されて生き延びる。徳川時代も幕府の庇護の元に、諸大名達の墓所として栄え今日に到っている。
 
 金剛峰寺は霊宝高野山の総本山として栄え、現在では全国に4,000余りの末寺を持つ。大広間、柳の間(豊臣秀次は、ここで切腹した)、梅の間等々の部屋には、狩野元信、探幽、探斉らの襖絵があり有名である。本坊以外にも、別殿、奥殿、新書院、茶室等の建物があるが、現在の本坊は、文久3年(1863年)に再興したもので文化財となっている。
 
 即身仏となった弘法大師の御廟には、灯明、お香、読経が絶えることなく捧げられる。全世界1,000万の信者達は、ここを聖壇としてあがめ、毎年100万人以上がこの高野山を訪れる。現代では、高野山の墓所を利用しているのは大名達ではなく企業である。Panasonic、SONY、SHARP、日産、トヨタといった名だたる企業の社墓が新しい墓地園に建てられている。花菱アチャコや大河内傳次郎など、芸能人や有名人もここに墓がある。ロケット産業に強い明和工業鰍フ墓地もある。
 
 企業の墓は、トレードマークや社業を表した墓碑が多い。福助足袋は福助人形、飲料会社はコーラのビン、といった具合だ。日本写真家協会の墓は、写真業界に貢献した人々の顔写真が石に刻み込まれていた。一見写真を石に印刷したように見える。高野山は、時代が移り庇護者が変わっても、しぶとく生き残って行くに違いない。
 
 …と、こんな記載が(^-^)
 
 奥の院までの参道沿いの墓所に眼を向けます程度の時間しかありませんから、凡ての墓所を廻りますのはとてもとても…でも、まさにこんな参道周辺の光景でありました。
 これらの中には、備後福山水野藩の墓所も存在しておりました。
 
 時間が許せば、ジックリと見て廻れますのですけど…
 それに、奥の院・弘法大師御廟では写真撮影が許されませんのも、少々残念でありました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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