中村講中 滋賀&京都方面お寺巡り <4/5>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■2011年12月09日
 中村講中の皆様との滋賀・京都方面へのお寺参り(4)

 妙傳寺へのお参りを終えますと、今回の旅での最後の訪問寺「頂妙寺」へと向かう事となりました。
 妙傳寺〜頂妙寺間は距離的に近くですから、皆でテクテクと歩いて向かう事となりました(^.-)☆

 この日の京都は、ちょうど「時代祭」の開催日でしたから観光客の多いこと(^.-)☆
 こぅして私たちが頂妙寺に向かっておりますと、この合間を縫うように観光客の皆様の自転車が通過されますから、結構危ない状況でしたねぇ〜
 「こら、こら、自転車は歩道を走行してはイケないのだ…」と思うものの、自転車が車道を走行しますと自転車も危ないですから、う〜ん、困ったものですねぇ〜

 途中、寂光寺がありまして参拝はしませんでしたけど、チョッと感激ではありました。


 ◆寂光寺(じゃっこうじ)


  顕本法華宗本山 妙泉山 寂光寺
  京都市左京区仁王門通東大路西入る北門前町469

 碁の「本因坊」の起源となる碁所だった寂光寺は、観光寺院でないので境内はいつ訪れても静かである。説明によると、天正6年(1578)、妙満寺(現岩倉幡枝町)26世、日淵(にちえん)上人により創建されたとある。当初は、久遠院と号し室町通出水近衛町(上京区)にあったが、豊臣秀吉の聚楽第造営のために寺町通竹屋町(中京区)へ移転。更に宝永5年(1708)、洛中に起きた大火災で罹災し現在地に移った。

 当寺二世の日海(にっかい)上人は、碁を堺の仙也(せんや)老人に学んだ碁の名手で、碁所の開祖。当時、日海には敵手なく、織田信長から「名人」の名を贈られた。
 日海は塔頭の本因坊に住み、本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)と号していた。織田信長のほか、豊臣秀吉、徳川家康などへも碁を教え、以後、本因坊の名称は碁界の家元とされ、技量に優れた者が襲名継承することになった。碁の「本因坊」の起源である。

 なお、日海は、本能寺の変が起きる前夜、信長に呼ばれ碁を打っている。
 本因坊は、4代道策(どうさく)のとき江戸へ移った。寺内には、本因坊5代までの墓と本因坊碑がある。また、寺宝には、碁所の開祖の算砂の画像や関白近衛家から拝領した唐桑(からくわ)の碁盤などを蔵している。


 …と、こんなお寺でありますが、境内が実にキレイに管理されていますのが大変、印象的でありました(^-^)/

 妙傳寺のお坊さんにご案内頂き頂妙寺に無事に到着です。

 ■由緒 頂妙寺(ちょうみょうじ)

 聞法山(もんほうざん)と號し今から約五百十餘年前妙国院日祝(にっしゅう)上人を開基(かいき)として細川勝益公が創建した日蓮宗の本山である。

 寺地(じち)はもと柳馬場四條にあったが、のち下長者町新町(しもちょうじゃまちしんまち)の邊に移り更に轉々して約三百十余年前、この地に移った。
 此の寺の第三祖佛心院日bは織田信長の安土問答に日蓮宗を代表して會した人である。

 楼門の東西には高さ七尺の持国天、多聞天像を安置して、其の前には俗に仁王門の拝殿と呼ばれる禮堂がある。仁王門通の名は此処から起った。本堂には本尊として法華首題牌釋迦如来(ほっけしゅだいはいしゃかにょらい)、多寶如来(たほうにょらい)を安置し、楼門東には祖師堂(そしどう)、北には大黒天堂(だいこくてんどう)がある。


 昭和六十一年七月吉祥日(上は頂妙寺本堂の脇に掲げてある由緒書をそのまま再録しています。)との事であります(^-^)

 

 

 

 

 

 

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