2015/12/06 第3回「因島ウォーキング大会」 <3/6>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 因島鉄工業団を後にしスタート地点のアメニティ公園にと向かっておりまして、いよいよゴールも目前となりました地点にモアイ像が3体存在です (^.-)☆
 お顔はいずれも無表情(^.-)☆
 昔は(20年ばかり前までは)近付きまして手で触る事も出来たのですけど、現在は入れませんように柵が…

 そしてまた暫く進んで行きますと「SNAP SPOT」の表示板が(^-^)
 んっ?!…と、暫し立ち止まりのGONsanです。
 対面の向島方向に眼を向けましたが、これと言ったViewPointでもなさそうな…

 ですが、わざわざ表示板が設置してありますと言う事は、きっと因島〜向島間の海峡を色んな船舶が航行しますこの景観を撮りますのには最高のポイ ントなのかも分かりませんねぇ〜
 GONsanがこのポイントを通過の際には、残念ながら大型船舶は航行してはいませんでしたねぇ(^-^)//"

 

 SnapSpotからほどなくスタート地点であります因島アメニティ公園にと戻ってまいりました(^.-)☆
 ゴール時間は、P.M.0:27でありました(^-^)

 …と言う事は、途中、昼食時間を挟みはしましたけど約3時間のウォーキングとなりますネ。
 ゴール後には完歩証を頂き、そしてミカン・焼き芋も(^_^)v
 「因島はっさくん」のお出迎えもありました(^-^)

 お世話して頂きました皆様、大変有難うございましたm(_ _)m
 また来年も、是非、参加させて頂きたいと思います。

 ウォーキングを終えますと、せっかく因島にヤッて来ましたのですから、時間の許します範囲内で島内を観光です。
 まず最初に、因島水軍城に出掛けてみる事に致します(^-^)//"

 

 

 

 まずは、因島水軍城を訪問です。過去に何度か訪れておりますけど、因島と言えば「村上水軍」です。
 ですから、何度も訪れてはいましても、とりあえずは「因島水軍城」を最初に訪問です(^.-)☆

 ◆村上水軍

 村上水軍(むらかみすいぐん)は、日本中世の瀬戸内海で活動した水軍(海賊衆)である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした海域であり、後に大まかに能島村上家、来島村上家、因島村上家の三家へ分かれた。
 彼らの多くは真言宗徒であり、京都などに数多く菩提寺が残されている。また、今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住む。主な活動は航行船の破壊、略奪、信書の開封破棄等を通じた同盟関係の分断である。20世紀まで瀬戸内海で見られた漂海民も、村上水軍の末裔ではないかといわれている。代表的な表紋は「丸に上文字」や「折敷に縮み三文字」など。

 ★起源

 これら三つの村上家の起源ははっきりしないが、もともとは一つの家であったという。その起源として最も有力とされるのが、『尊卑分脈』に記された、河内源氏の庶流信濃村上氏を起源とする説である。平安時代に活躍した村上為国の弟・村上定国が保元の乱後に淡路島を経由して塩飽諸島に居を構え、平治の乱後の永暦元年(1160)に越智大島に居を移し、伊予村上氏の祖となったとされる。

 越智大島を始め伊予各地には、源頼義が伊予守をしていた時期に甥の村上仲宗(信濃村上氏の祖)に命じて多くの神社・仏閣を建立させたという伝承が残っており、もともと伊予は信濃村上氏と縁のある土地であったとされる。
 また能島村上氏の系図では、自らの出自を村上天皇の皇子具平親王の子源師房を祖とする村上源氏としている。因島村上氏にも同様の起源を主張する系図が残されている。また信濃村上氏に残る系図には、源頼信の次男源頼清が村上天皇の皇子為平親王の子源憲定(村上憲定)の娘婿として村上姓を名乗ったとする、よく似た説が伝わっている。その他に、伊予越智氏の庶流との説もある。

 この他、村上義弘は、愛媛県新居浜市沖の新居大島の生まれであると同島では伝えられており、水軍活動初期のものと思われる城跡や舟隠し跡などが残されている。

 ★村上水軍の活動

 文献史料上、最も古い記録は1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)のもので、能島村上氏が東寺領の弓削庄付近で海上警護を請け負っていたという。南北朝時代には、因島、弓削島などを中心に瀬戸内海の制海権を握っており、海上に関を設定して通行料を徴収したり、水先案内人の派遣や海上警護請負などを行っていた。

 戦国期には因島村上氏が毛利氏に臣従した。来島村上氏は河野氏に臣従し、村上通康は越智姓を名乗ることを許された。能島村上氏は河野氏と友好関係を持っていたが、臣従はしなかった。その後は中国地方に勢力を張る毛利水軍の一翼を担い、1555年(弘治元年)の厳島の戦い、1561年(永禄4年)の豊前簑島合戦、1567年(永禄10年)からの毛利氏の伊予出兵、1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いなどが知られている。

 ★村上水軍の解体

 来島村上氏は早くから豊臣秀吉についたため独立大名とされ、他の二家は能島村上氏が小早川氏、因島村上氏は毛利氏の家臣となった。1588年(天正16年)に豊臣秀吉が海賊停止令を出すと、村上水軍は従来のような活動が不可能となり、海賊衆としての活動から撤退を余儀なくされる。因島村上氏はそのまま毛利家の家臣となり、江戸期には長州藩の船手組となって周防国三田尻を根拠地とした。能島村上氏は毛利家から周防大島を与えられて臣従し、江戸期には因島村上氏とともに長州藩船手組となった。来島村上氏は江戸期に豊後国の玖珠郡に転封され、完全に海から遠ざけられた(森藩)。

 ◆因島水軍城
  城郭の構造:観光用城型資料館

 ★紹介文

 因島水軍城は1983年(昭和58年)に築城された全国でも珍しい城型資料館です。村上水軍は南北朝から室町戦国時代にかけて、瀬戸内海で活動した水軍(海賊衆)です。本丸には模擬天守(資料館)があり、県重要文化財である白紫緋糸段縅腹巻1領をはじめ、武具や遺品など村上水軍ゆかりの品が数多く展示されています。

 しまなみ海道の周辺は瀬戸内海の制海権を握っていた村上水軍の活躍したところです。能島村上家、来島村上家、向島村上家の三家が通行税の徴収や水先案内、海上警備を行っていました。戦国時代、因島村上家は毛利氏に臣従、毛利水軍の一翼を担い厳島の戦いなどで活躍しました。江戸時代には能島村上家とともに長州藩の船手組となったと言います。
 因島には当時の村上水軍の歴史を伝える水軍城があります。実際の水軍城は岬などに築かれていたようですが、村上水軍の菩提寺のある金蓮寺近くの高台に観光施設として築かれたものです。


 …と、WEB上にはこんな記載がありましたネ(^.-)☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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