昭和記念公園・新宿御苑・明治神宮・都庁ビル <3/6>
新宿御苑

 新宿御苑の敷地は、天正18年(1590)に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷の一部です。

 東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ広大な土地で、のちの甲州街道や青梅街道になる江戸から西にのびる街道と、鎌倉街道が交差する要所であったことから、この一帯の警護など軍事的な目的で家康が信頼できる家臣に与えたとされています。

 内藤氏7代清枚は元禄4年に三万三千石の信州高遠城主となりました。内藤家の屋敷地はその石高に比べてあまりにも過分であったため、その後かなりの部分を幕府に返上しましたが、明治5年にはまだ十万坪以上が残されていました。

 新宿御苑は、この内藤家の九万五千坪余と、当時すでに私有地化していたものの、もとは内藤家の屋敷地であった隣接地を合わせた十七万八千坪(58.7ha)の土地に誕生することとなりました。また、現在大木戸門を入った突き当たりにある玉藻池を中心とする日本庭園は、安永元年(1772)に玉川上水の余水を利用して完成した内藤家の庭園『玉川園』の一部です。

 このようなことから、新宿御苑のルーツは内藤家の江戸屋敷と言えます。

   

↑↓ いずれも新宿御苑内の景観です(^.-)☆

  

   

↑↓ いずれも新宿御苑内の景観です(^.-)☆

  

  

↑↓ いずれも新宿御苑内の景観です(^.-)☆

  

   

↑↓ いずれも新宿御苑内の景観です(^.-)☆

  

内藤新宿試験場と新宿植物御苑
 
 明治5年、政府は内藤家から上納された土地と買収した隣接地を合わせた58.7haの敷地に、我が国の近代農業振興を目的とする「内藤新宿試験場」を設置しました。

 ここでは欧米の技術や品種を含めた果樹・野菜の栽培、養蚕、牧畜などの研究が幅広く行われました。そして明治7年には内務省の所管となり、新たに教育施設として農事修学所(明治10年駒場に移り、のちの東京大学農学部などの前身である駒場農学校となる)が設置されました。

 新政府の農業振興政策拡充のなかで、内藤新宿試験場は、その幅広い役割の一部を他に移し、明治12年、宮内省所管の「新宿植物御苑」として新たなスタートをきることになりました。

 江戸から明治への大変革期において、この広大な内藤家の屋敷跡の一部が内藤新宿試験場として確保されなければ、今日の新宿御苑は存在し得なかったと言えます。 新宿植物御苑の時代には、現在日本庭園となっているところを中心に鴨池、養魚池、動物園(大正15年上野動物園に下賜)が造られるなど、皇室の御料地・農園として運営がなされました。

 模範的な農場づくりをめざした果樹・野菜などの栽培研究は継続され、我が国で始めての温室を用いたラン等の花きの栽培を行うなど、欧米の園芸の輸入や民間への技術の普及にも力を入れました。

 また、早くからヒマラヤシーダー、ユリノキ、プラタナスなど多くの外国産樹木を取り寄せて植栽が行われ、明治29年には西洋庭園に面して洋風建築の休憩所(旧御休所)も建てられました。現在の御苑のたたずまいは、この頃の所産とも言えます。

 このように内藤新宿試験場・新宿植物園の時代は、我が国の近代農業、特に園芸の発展にとって極めて重要な役割を果たしました。
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