福井市 北の庄城趾・足羽山公園・福井城趾・福井大仏 <5/7>
福井城祉

 福井駅前ロータリーのすぐ北側徒歩2分の所に石垣とお堀の跡がある。戦国時代の末期の1601年(慶長6年)、徳川家康の二男・結城秀康が入国して城造りを行った。

 しかしながら2度にわたる火災で焼失し、幕府の許可が下りず再建されぬままとなった。城跡地には、現在福井県庁と県警本部が立っている。福井駅より徒歩で約2分。

  

結城秀康(天正2年〜慶長12年・1574〜1607)

 母は家康の正室築山御前の侍女であった側室お万の方(小督局)長勝院が生んだ。家康の二男で、幼名は於義丸。

 天正2年(1574)浜松城外、浜名湖畔宇布見村(有富見村)の中村源左衛門の家で生まれた兄信康が信長の命により二俣城で切腹させられた時、秀康は6歳だった。

 だが家康はこの子をあまり可愛がらなかった。天正12年(1584)小牧・長久手戦の講和の際人質として、11歳で秀吉の養子となった。天正18年、秀吉は秀康を下野の結城晴朝の養子とさせ下総結城城十万千石を相続するが、結城氏を棄て、関が原合戦の後松平氏を称し越前国福井城主67万石を領したが、慶長12年閏4月8日没、享年34歳。

 家康は後継ぎ選びには豊臣秀吉の最後に立ち会っていただけになみなみならぬ神経を使ったはずである。武将としての器量が優れていた嫡男信康は信長の命で切腹させられており、この二男秀康は家康のソフトで律儀な面を受け継いでいた。三男秀忠は誰が見ても頼りない三男妨であった。

 正妻築山御前の侍女お万に産ませた秀康を家康はわが子かどうか疑っていたらしい。そのためか天正12年(1584)秀吉との長久手の戦いの後、和睦の証に11歳になったこの秀康を養子に差し出してしまう。秀吉が亡くなった時、秀康は25歳。豊臣方からも、徳川方からも期待される人気抜群の武将に育っていた。

 関が原合戦の年の秋家康は大阪城西の丸に6人の重臣を集め、二男秀康、三男秀忠、四男忠吉の3人の息子のうち誰に家を継がせるか意見を聞いたという。

 大久保忠隣、榊原康政は「秀忠公は智あり、勇あり、両者を兼備しておられる。天下を譲り給うべきは、この君をおいてどなたがござろうか。」と押した。

 「三河守秀康公こそ武勇殊に優れたり。しかも長子なればこれこそお世継ぎに定めるべきではないか。」と秀康を押したのは本多佐渡守正信、本多忠勝。

 関が原で大活躍した四男の忠吉を押したのは、井伊直正であった。だが家康は早くから後継者は秀忠と考えていたようである。

  

   

  

  

(中)この控天守台跡の石垣には福井震災(1948年6月)等による崩壊の跡が残っています。
厳しい自然の力が感じられると共に、築城以来の悠遠なる時の流れに想いを馳せる事が出来ます。…との事であります(^.-)☆

  

  

  

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