三重県鈴鹿市 神戸城跡・神戸公園 <2/4>

神 戸城

城郭の歴史

 伊勢平氏の子孫関氏の一族神戸氏は南北朝時代(14世紀)飯野寺家町の地に沢城を築い たが、戦国時代1550年代にはこの地に神戸城を築いて移った。
 神戸氏七代目友盛は北勢に威を振るったが、信長軍侵攻により永禄11年(1568)その三男、信孝を養子に迎えて和睦した。

 信孝は天正8年(1580)ここに金箔の瓦を用いた五層の天守閣を築いた。しかし、本能寺の変後岐阜城に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で自刃し、文 禄4年(1595)には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通して天守閣は造られず石垣だけが残された。

 江戸時代、城主は一柳直盛、石川氏三代を経て享保17年(1732)本多忠統が入国する。本多氏の治世は140年間七代忠貫まで続き、明治8年 (1875)城は解体される。
 その後は堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。天守台や石垣に悲運の武将を偲ぶことができる。

--- 鈴鹿市教育委員会(神戸城跡案内板より) ---

歴史一言 メモ

 織田信長は永禄10年(1567)に伊勢侵攻を開始、後醍醐天皇より伊勢の国司を任じられていた北畠 氏や神戸氏を次々に撃破し、二男の織田信雄を北畠氏 に、三男の信孝を神戸氏の養子に入れ、実質的に伊勢を掌握する。

 信長が本能寺の変に倒れた後、清洲会議で美濃国を所領した神戸信孝は岐阜城に移り、柴田勝家,滝川一益等と共に反秀吉で盟約を結び対抗するが、賤ヶ岳の 戦 いで柴田勝家は破れ、勝家滅亡後は、信孝も抗しきれず知多半島で自刃する。

 
城址の周りの城下町には寺が複数あるが、神戸城に本多家が入った時に近隣の寺家を集めたそうです。神戸公園 から鈴鹿市駅の方面の道は当時の防御的な入り組んだ道が当時の町の情景を思わせます。隣の神戸高校校内のテニスコートあたりが藩校址で、その当時からある 楠が今もあります。
  

↑↓  いずれも天守跡の景観です(^.-)☆

  

  

 

  

↑↓  いずれも神戸城跡・神戸公園内の景観です

  

  



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