熊本県 本渡市 <2/13>
--- 天草四郎の周辺 ---

 
寛永11年(1634)から14年(1637)にかけて、毎年の天候不順、凶作、飢饉(ききん)のため餓死する人がたくさん出ました。しかし、農民に対する年貢の取り立ては厳しく、納められない農民に対してはさまざまな迫害が加えられました。その上、地震や火山の噴火も相次ぎ、人々は「地獄の到来」と恐れました。とくに数年前の宗門改めのときに転宗した者は、この異変を、自分たちが転んだことへの神の怒りのあらわれと思い、キリシタンへの立帰りを急ぎました。

--- 神童『天草四郎』の誕生 ---

 このような時、四郎を一揆の頭領に推したのが姉婿の渡辺小左衛門(わたなべこさえもん:大矢野大庄屋)でした。上津浦(こうつうら)南蛮寺のママコス神父が「今から25年後、東西の雲が赤く焼け、国中が鳴動するとき、一人の神童が現れて、人々を救うであろう」と予言書を残して去ったという話は、四郎を担ぎ出すための浪人たちの画策でしょう。こうして、神童「天草四郎」は誕生し、島原・天草の領民の間にはその名前と数々の奇談が広がっていきました。

--- 四郎をとりまく人々 ---

 父・甚兵衛、母・マルタ、姉・福(ふく)、妹・萬(まん)、甥・小平(こへい)、祖母(母の母、名不明)縁者・喜四郎(きしろう)は、宇土の江辺村に住んでいました。乱のおり、四郎と父は行動を共にしていましたが、家族は宇土にいたので、四郎の義兄にあたり、天草一揆勢の中心人物であった渡辺小左衛門は10月29日、宇土江辺村にいた四郎の家族を引き取りに出かけています。しかし、10月30日に郡浦(こうのうら:現三角町)で細川藩士によって捕らえられ、四郎の母、姉、妹などもその夜捕らえられました。

--- 実像の『天草四郎』---

 四郎は当時16歳で、記録には霊名を「ジェロニモ」、または「フランシスコ」と記してあります。歯にはおはぐろを入れ、髪を後ろに束ねて紐で結び、前髪をたらし、額に十字架を立て、白衣を着て、手に御幣を持つなどかなり呪術的ないでたちをしていたことが記録されています。四郎は戦いの最中でも人々に洗礼を授けたり、説教をしていたようです。
 このような「天草四郎」について、「自分の意志にかかわらず、大きな流れに巻き込まれた悲劇の主人公」、「浪人や農民の援護で指導性を発揮した少年」など評価が分かれています。


--- 討ちとられた四郎の首 ---

 寛永15年2月27・28日にかけて、幕府軍は総攻撃をかけ、一揆軍は全滅しました。幕府軍は捕らえていた天草四郎の母と姉に、四郎の首実検をさせています。母親は「神の子、天草四郎が人に首を取られるはずはない。すでに天国に昇ったか、南蛮かルソンに落ちのびたのであろう」と言っていましたが、同じ年頃の少年の首を幾つも見せられる中、細川藩主の陣佐左衛門(じんすけざえもん)が28日の早朝に討ち取った首を見て、泣き崩れたといいます。確認された四郎の首は一万余りの首と共に、原城の大手門前にさらされました。

  

(左)(中)(右)殉教公園内の景観です(^.-)☆

  

(中)(右)キリシタン墓地です

天草切支丹館

 天草切支丹館には、16世紀後半に伝来した異国情緒あふれる南蛮文化のロザリオやクルスから、天草・島原の乱で使用された武器、キリシタン弾圧期の踏絵、そして隠れキリシタンの生活が偲ばれるマリア観音像まで約400点が展示されています。

 中でも、国の重要文化財に指定されている天草四郎陣中旗は必見で、これは1637年に起きた天草・島原の乱で天草四郎が使用したといわれるものです。世界三大軍旗の一つで、旗には戦いの激しさを物語る血痕や矢弾の跡が残っています。

  

(左)(中)天草切支丹館の景観です (右)天草四郎の像です 何に向かって指さしているのでしょうネ…

  

↑↓ いずれも天草切支丹館の景観を撮りましたものです

  

  

(左)(中)(右)木山弾正社です

  

(左)本渡城趾の碑です (中)弾正社の由来の案内板が… (右)木山弾正社です

  

↑↓ いずれも天草切支丹館の景観です(^.-)☆

  

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