講中の皆様と西九州のお寺巡り <14/16>

 ■2007年06月02日
 町内の“講中”の皆様と一緒の九州お寺巡り -- L --

 珍しい鯉料理で昼食を済ませますと、一路、福山にと帰るのみ。
 で、その前に帰路の途中で福岡にと寄り道し、福岡県庁真ん前の東公園の一角に存在します「日蓮聖人の像」に参拝です(^.-)☆


 ■東公園

 昔は九州三大松原の一つと言われ、景勝千代の松原の一部でした。
 明治9年太政官布告に基づき、官に上申して公園地となったものです。当時は東松原公園と称していましたが、明治33年、東公園と名称を改めると共に、県の管理となったものです。

 東公園は福岡市の東側に位置し、公園周辺の著しい発展によって松原の枯損が広がり、往年の白砂青松の景観も廃退し、時代の要請もあって、昭和元年と昭和27年の公園再整備計画により、福岡市東部の休養・運動を主体とした公園として親しまれてきました。

 昭和56年公園北側に、福岡県新庁舎が建設されたため、運動施設は他に移設改善し、現在では約7万平方メートルの、亀山上皇をシンボルとした日本風公園として新しい都市のオアシスを形成し、県民の憩いの場所となっています。


 ◆県庁ができる前からある日蓮聖人の像

 --- 日蓮聖人像の台座にある元寇の役の戦いのレリーフ ---

 福岡市最初の自然公園であるが県庁がここに移転し公園自体も改園され昔の面影はない。
 しかし明治37年に建立された「日蓮聖人の像」と「亀山上皇の像」は昔のままである。

 日蓮聖人はいわずとしれた日蓮宗の開祖である日蓮上人である。亀山上皇とは13世紀の元寇の際に「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国降伏を祈願された上皇で、明治37年に現在の警察署長であった湯地丈雄等の有志が建立したものである。

 公園そばに七福神の一つである福の神(恵比寿神)を祭る十日恵比須神社があり、漁民や商家の信仰者が多い。正月10日の「十日えびす祭」には参道を埋める露天や博多芸者の「徒歩(かち)参り」でにぎわう。

 明治21(1888)年、湯地丈雄(1847〜1913)が主唱した元寇記念碑建設運動に、佐野前勵(日菅、1859〜1912)が共鳴したことに端を発して建立が進められたものです。明治25(1892)年4月東公園で起工式が行われ、明治37(1904)年完成、同年11月8日除幕式が行われました。

 製作を引き受けたのは東京美術学校(明治20年設置、同22年開校、現東京芸術大学)校長であった岡倉天心(1862〜1913)、その図案懸賞には明治27年に同校を卒業する下村観山(1873〜1930)のデザインが一等賞を受け(その図案が採用されたか否かは不明)、原型(木型)製作を木彫科初代教授竹内久一(1854〜1921)、鋳造を同校鋳金科教授岡崎雪声(1854〜1921)が行いました。

 鋳造は困難を極め、結局東京での鋳造は頭部と両手首のみで、本体部の鋳造は佐賀藩の御用鋳物師の伝統をもつ佐賀市の谷口鉄工所で行われました。
 奈良の大仏、鎌倉の大仏に次ぐ、国内第三位の巨大青銅像です。


 …と、こんな東公園・日蓮聖人像なんですけど、日曜日と言うこともありまして、訪れます方は多かったようですネ。

 時間的に余裕がありましたら、東公園内をノンビリと散策出来ましたのですけど、せっかくですから太宰府天満宮にも立ち寄りませんとイケませんし、滞在時間が短かったのがチョッと残念でしたネ(^-^)

 東公園内の散策は、またいつの日か機会がありましたら楽しみたいと思います(^-^)//"

  

  

  

  

  

  

  

  

  

 ■胸像の由来

 東郷平八郎元帥は、法華教の篤信者であった。明治三十八年五月、日本海海戦で勝利を収めた後、同年八月十九日、加藤友三郎参謀長等と共に博多に寄港し、松下直美福岡市長の案内で亀山銅像とこの日蓮銅像へ戦勝お礼に参拝された。
 また、大正九年四月八日には、皇太子殿下(昭和天皇)に従って再度両銅像に参拝された。

 この胸像は、昭和十年に元帥の偉功を讃え日本海海戦会の有吉顕彰・中野昇外有志が、建立したものである。
 当初、前面の銘板には「おろかなる心につくす誠をば みそなわしてよ天つちの神」という歌を付してあった。

 これは大正三年四月、元帥が東宮学問所総裁に任命された時の感激を詠まれたものである。
 その後、銘板が剥がされていたものを福岡鹿児島県人会・南洲会有志が改宗し奉納するものである。
 この胸像が日蓮聖人のお側に未来洋々立ち続けることを祈念して止まない。--- 平成八年九月吉日 ---


 ◆東郷平八郎
 生没年:弘化4年(1847)〜昭和9年(1934) 海軍軍人:大将・元帥

 ◇略歴

 東郷吉左衛門の四男として、鹿児島城下下加治屋町に生まれる。藩校造士館に学び、文久3年薩英戦争に初出陣。慶応2年薩摩海軍に入り、阿波沖海戦、宮古湾、函館戦争に参加。

 明治3年海軍に入り、明治4年イギリスに留学。明治27年日清戦争では浪速艦長として豊島沖・黄海沖・威海衝戦に功を挙げた。明治31年海軍中将、明治34年舞鶴鎮守府司令長官、明治36年連合艦隊司令長官。明治37年大将。

 日露戦争で旅順港封鎖作戦、日本海海戦を指揮。バルチック艦隊を撃滅し、「東洋のネルソン」と称された。

 

  

 ■銅造日蓮上人立像の制作について

 銅造日蓮上人立像の制作は日蓮宗改革運動を展開していた佐野前勵(日菅、1859〜1912)が、明治21(1888)年、湯地丈雄(1847〜1913)が主唱した元寇記念碑建設運動に共鳴したことに始まります。当初の元寇記念碑は北条時宗の騎馬像であり、その記念碑中に日蓮の肖像をはめ込む計画でしたが、他宗派の反対で実現しませんでした。以後湯地の元寇記念碑建設とは袂を分かち、日蓮一宗での日蓮銅像単独建設となりました。明治23年、福岡市橋口町勝立寺に銅像建設事務所設置し、明治24年に内務省の建設許可を受けました。明治25年、東公園にて起工式、亀山上皇像の起工式におくれること二年、この年東京美術学校に五十分の一模型を委嘱しました。明治37(1904)年完成、同年11月8日除幕式。

 本像原型を制作した竹内久一(東京美術学校木彫科初代教授)は、古社寺の古彫刻の修復を多く手がけ、古彫刻の研究とその創造的復興を試み、後に古社寺保存会委員に任じられた理想派彫刻家の代表者(岡倉天心の評)です。

 本像の両手と頭部を鋳造した岡崎雪声(東京美術学校鋳金科教授)は、本像鋳造前年(明治30年)、上野公園の西郷隆盛像(原型は高村光雲)・皇居前広場の楠木正成像(原型は高村光雲他)を手がけるなど当代鋳造界の第一人者でした。
 また、胴体の鋳造にあたった谷口家(谷口鉄工所)は、江戸初期には英彦山神社の銅鳥居(重要文化財)鋳造をはじめ、幕末には日本最初の熔鋼反射炉製作に参加するなど、佐賀藩の御用鋳物師としての伝統をもち、明治維新後にはヨーロッパの近代工業技術を駆使して、殖産興業の一翼を担った鉄工所ででした。

 鋳造に関しては、度重なる失敗のため型持が多用された岡崎雪声担当の頭部・両手部分と、谷口家が担当した型持を見出し得ない銅体部との間に伝統的技術と近代的工業技術の差異があることがわかります。しかしまた、分鋳した各部分をボルト・ナットで結合する方法は、岡崎雪声がアメリカで学んできた技法であり、本像全体としては伝統的技術と近代的工業技術との折衷・融合の上に成立したものと見ることができます。

 なお、台座のレリーフは近代洋画史の欠史部分を補う絵画資料となっています。原画を画いた矢田一嘯(1858〜1913、横浜生れ)は日本におけるパノラマの普及に力あった洋画家。博多に居住し、人形師に人体・骨格・筋肉・絵の具の着色法・溶解法などを指導し、玩具的な博多人形から美術的な博多人形へ飛躍する基礎を作った恩人とされています。白水松月は小島与一(1886〜1970、人間国宝)の師である白水六三郎、年少の与市を引き連れ矢田に学んだ博多人形師の一人です。鋳造にあたった深見家は福岡藩時代以来の博多鋳物師ですが、その遺品は多くは残されていません。

 烈風に法衣を翻し、理想を護持して堂々と厳しく屹立し、加えて人間味ある親しい像容を表現した本像は、奈良・鎌倉時代以来第三番目の巨大鋳造事業の作例として、また、伝統的「仏師」が近代的「彫刻家」として再誕する過程の作品として、さらには鋳造法における伝統と革新を示す作例として、近代彫刻史上「銅像の時代」と言われるこの期を代表する作品であり、本市のみならず全国的にも極めて貴重な鋳造彫刻です。
--- 宗教法人日蓮聖人銅像護持教会 ---
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