兵庫県三田市 三田天満神社・金心寺 <1/3>

三 田天満神社
 
 三田での早朝散策は、三田天満神社・金心寺でありました(^.-)☆

 三田天満神社は、全国に5千余ある天神様の内の25社天神の一つ。
 特に京都の北野天神、大阪の天満天神と並び称され、『兵庫の三田天神』として親しまれている。

 三田天満神社は、天文14年(1545)領主赤松村秀(あかまつむらひで)が三田神祠を再建し、後、寛永10年(1633)三田藩主九鬼久隆(くきひさ たか)の代以降、代々藩主の御祈願所となりました。
   

(左) 三田天満神社

  

  

  

(中) (右)天神公園 九鬼藩主代々の祈願所・ 天満神社に隣接し、公園内には、梅、桜など季節の花が植えられています。
春には花見に多くの人が訪れます。

 
 貫 誠社

 インターネットで検索してみますと、こんな記載のホームページがありまし た(^.-)☆
 
祖 三百年祭

 明治三十二年十一月十四日摂津三田の旧藩祖九鬼嘉隆公三百年祭式場と定められた三田心月院の本堂正面には九鬼家の始祖嘉隆公肖像を掲げ、その周囲には九 鬼家の定紋を染抜いた幔幕を張り、供物飾付等万端滞りなく準備され、刻限午前十時同寺の方丈では弘津説三僧正が僧衆六十人を率いて定めの順序に依り法事を 行った、祭主九鬼隆輝の祭詞、親戚蜂須賀侯爵、一柳子爵、建部子爵、松方幸次郎、九鬼隆一男爵、士族総代澤野應吉の祭文奉読焼香が続き、午後一時三十分に 祭式全てが終った。
 当日参拝した士族は二百五十余人で、その他の参拝者を合せると五百余名であった。

 尚藩祖三百年祭を記念して建碑する敷地と定められた屋敷町の内古城に於ては竹林を拓いて三百余坪をこれに宛てられ、正面に神殿を設け祓場とし夫々神饌等 の準備が整い、午後三時神官一同会場に進んで祓詞を奏した祭主九鬼子爵を始め前記親戚諸氏の外旧領内の主立った人々数多く参拝し、三田高等尋常小学校生徒 が神殿正面に整列をして、帝国大学講師黒川真道が作曲した唱歌并に九鬼隆一作詩の軍歌を歌い、神官の奏楽あり祭主子爵に代わり九鬼隆一男爵は碑文を奉読、 続いて斎主神先幾久造氏の謹詞そのほか二三の祝詞あり、祭主始め一同玉串を献じて式の全てが終ったのは午後五時。

 三田市街目抜き通りには九鬼氏の定紋『七曜』の紋を染抜いた旗を掲げ、また各町辻々には大旗を交叉させ、三田駅より道筋には荒砂を敷く等綺麗に掃き清め られ其の設備は至れり尽くせりにて、近郷在勤よりその祭式を拝観しようと出掛けてくるものも多く市中は大いに賑わった。

 殊に十三日は九鬼子爵始めその他来賓閣下のため之を奉迎する士族の外に旧領民等が出迎えた。見物の老幼男女さえ夥しく三田駅前は非常に混雑を極め近来稀 なる人出となった。当日の土産として九鬼子爵より三田高等小学校へ千円、丹波氷上郡旧領内七十才以上の高齢者並びに貧民に夫々金品恵恩与された、又この日 は書画及び征韓の際に於ける分捕り品を同地尋常小学校内に陳列して広く閲覧させ、合せて士族一同の懇親会を開いた。

 この時代は未だ士族意識が強く存続していたが上級武士階級の組織である懐旧会と下級武士階級の結社である貫誠社が互いに連絡を取り合あって、この『藩祖 祭』は盛大に終えることが出来た。大正時代士族の名称が無くなると懐旧会は自然消滅し、貫誠社のみが今も三田で活躍し ている。

  

↑↓  いずれも天神公園内の景観です

 

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