岡山県 総社市 <2/5>
宝福寺

 宝福寺は臨済宗東福寺派の中本山で、西国布教の一拠点として、地方の中でも有力な禅宗寺院の一つに数えられる。寺伝によると、創建当初は天台宗であったが、禅宗に改宗され、幾度かの再建を経て現在の七堂伽藍の偉容を整えた寺院となった。

 宝福寺は、山水画の大成者、雪舟が少年時代僧侶の修行をするために預けられていた寺であり、雪舟をたたえて境内には雪舟碑がたてられている。

 室町時代、備中の国赤浜(現岡山県総市赤浜)に生まれた雪舟は、僧侶の修行をするため、宝福寺に小僧として入った。しかし、もともと絵を描くことが大好きな少年であったため、修行はそっちのけで、毎日絵ばかり描いていた。

 そんな雪舟に和尚はとうとう堪忍袋の緒が切れ、雪舟をお堂の柱に縛りつけてしまった。一人お堂に残された雪舟は悲しみのあまり涙があふれ、足下にその涙がポタポタと落ちていった…。

 もういいだろうと和尚が縄を解きにお堂に行ったところ、雪舟の足下に一匹の大きな鼠がいた。和尚が追い払おうとしたが鼠は動こうとしない。近寄ってよく見てみると、なんとそれは落ちた涙を使って雪舟が足で描いた鼠だったのである。
 雪舟の絵の才能を感じた和尚は、それ以来、絵を描くことを怒らなくなったそうである。

 この話は、狩野永納「本朝画史」(1693、元禄6)に記された話である。しかし、雪舟のいた室町時代には、井山宝福寺での修行と涙のネズミの話は記録になく、江戸時代になって初めて記録に出てくることから、雪舟と井山宝福寺の関係を否定する声もある。しかし、伝承も重視すべきであり、根拠が全くないわけではないので、嘘であるとは断定できない。ここは素直に話を受け止めて、宝福寺を楽しもうと言う声が多いのが現状のようです(^.-)☆

雪舟について

 1420年、備中の国赤浜(現岡山県総市赤浜)の武士の家に生まれる。

 僧侶の修行をするため、宝福寺に小僧として入り、上記のようなエピソードを残している。その後京都の相国寺に修行に入るが、そこで当時、画僧・彫刻家として名高い周文と出会い「山水画」を学ぶ。画僧として名を知られるようになった雪舟は、周防国(現在の山口県)にうつり“雲谷庵”を構え、「雪舟」と号するようになる。

 1467年念願がかない、山水画の本場である明の地をふむが、明での活躍もはなばなしく、天童山景徳禅寺で「四明天童山第一座」という高位の称号を受けている。50歳で帰国後は雲谷庵を拠点に石見(島根県)、豊後(大分県)と活躍の場を広げ、多数の作品を残し、1506年、87年間の生涯を終える。

 

  

(左)(中)(右)いずも宝福寺の入り口となる山門です(^.-)☆

宝福寺 山門

 東側駐車場に面する、寺の本堂の前にある正門。重層で、2階部分には仏像が安置されるのが禅宗寺院の山門の形態である。正面五間あるいは三間、左右に山廊を付ける場合もあるが、宝福寺では正面一間のみとなっている。

 禅宗では仏殿を涅槃(ねはん)に擬している。涅槃とは、あらゆる煩悩(ぼんのう)が消滅し、苦しみを離れた安らぎの境地のことであり、悟りの世界である。山門はそこへ入る端緒である空・無相・無作の三解脱門を象徴したものと解釈される。

  

(左)(中)見上げるような大きな杉の木をくぐると“仏殿”が存在します(^.-)☆

仏殿

 寺域の中心に位置し、宝福寺建造物群の中でひときわ禅宗様の建築様式を示す建物である。禅宗寺院の中心的建造物である仏殿は、一般に禅宗様の意匠が典型的に示されるものであるが、宝福寺仏殿は純粋な禅宗様仏殿と比較すると、一部変容が見られる。

  

  

  

(左)方丈 (中)経蔵(きょうぞう)は経典が納められるところである

方丈

 方丈(ほうじょう)は、禅宗寺院においては住持の居室を意味し、訪客の接待・仏事法要などの公式儀礼や、住持の私的な生活の場としての性格を持っている。

   

  

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