大分県 臼杵市 <8/15>

  

  

(中)金比羅井戸

城下町の風格が漂う臼杵の代表的な通り

 
重厚感のある瓦屋根に白壁の建物、石畳が敷き詰められた上級の武家屋敷が立ち並ぶこの通りは、城下町臼杵の代表的存在である。春日局が住んでいた場所としても有名。

 メインの通りから細い路地に入るとレトロな雰囲気の洋館風の建物もあり、江戸時代から現代までの歴史のながれを感じとることができる。二王座あたりの台地は阿蘇山の火山灰が固まってできたもので、岩を削り取って石畳の道を作っている(通している)ことから「切り通し」とも呼ばれている。

  

  

↑↓ 大友宗麟公が築城の際、卯寅口に建立した卯寅稲荷神社です(^.-)☆

  

(中)卯寅口門脇櫓です(^.-)☆

  

(中)(右)中根貞彦歌碑

   

(左)(右)津久見島です(^.-)☆

津久見島

 臼杵湾の沖合い約7kmにぽっかりと浮かぶ島。「おにぎり島」と呼ぶ人もいるほど市民に愛されている島である。古くは、臼杵七島の一つ「竹生島、竹島」と呼ばれていた。

 一説によると臼杵城からの月の眺めの良さから「月見島」と呼ばれるようになり、現在の津久見島と呼ばれるようになったという説もある。夏には、島の民宿を訪れ、海水浴や釣りを楽しむ人も多い。市内の海岸部から常に眺めることができる。

    

中根貞彦

 歴史の道仁王座の「おやすみ処、旧真光寺」に向かい合って旧片切屋敷がある。この家で明治十一年二月、片切貞彦は三男として生まれた。父八三郎は明治十年六月一日、西東戦争で悲劇の戦死。貞彦は父親の顔を知らない位牌子である。母マツエは山の下の中島家より嫁いでいる。三児を抱えた母の苦労に同情して、親戚の者どもは「生まれんでもいい子が生まれた」といいしたと言う。その片切貞彦が生まれた後、母マツエは健康を損じ他界した。貞彦三才の時であった。ここで兄弟は離散し、貞彦は中島家に引き取られて、未婚の若い叔母のキクに養育された。

  
一人子の従兄と我とあらそへば孤児われを叔母はかばひし
  秋の夜を叔母が添い寝の子守歌かなしと今も耳にのこれり


 貞彦は高等小学校(現東中学校)を卒業して、佐伯の中根家の養子に入った。そして大分中学校(現上野丘高校)へ入学した。大中ではいきなり一番で最優秀の成績だった。つづいて熊本第五高等学校(現熊本大学)、次に東京帝国大学法科(現東京大学法学部政治学科)を卒業して、明治三十八年、中根貞彦は日本銀行へ入行した。彼の実力は認められ、数年後ロンドン代理店監督役に就任、帰国後国庫局長。昭和二年大阪支店長。翌年理事に昇格し、再び大阪支店長を嘱託されている。昭和7年三月に大阪を離れ日本銀行本店勤務に就いた直後、再び大阪へ向かうことになった。貞彦でなければ出来ない仕事が待っていた。

 それは三四銀行、山口銀行、鴻池銀行の合併である。中根貞彦は大阪金融界の大局的見地からから合併を成功させ三和銀行と名付けている。ところが頭取の人選が最後まで難航した。三行の首脳は「人格、手腕、力量、貫禄の兼ね備わった人は中根さんをおいていない」と相談して揃ってお願いに行った。

 当時、中根貞彦は日銀総裁を約束された人物であったが、それを棒に振って三和に入った。過去にも二度他行より要請があった。初めは朝鮮銀行副総裁。今一つは安田銀行に招かれたことである。貞彦自身「私の三和入りは世俗に言う三度目の正直と言うところでしょうか。」と記している。彼が初代頭取になった三和銀行は、昭和八年には預金総額十億円で、三菱、三井など四代銀行を越え、日本最大の銀行になった。

 貞彦には二度に渡る大蔵大臣の要請もあった。一度は広田内閣、二度目は第二次近衛内閣の時である。これを無造作に辞退しているが、こんなところにも人間中根貞彦が、にじみ出ている。
 貞彦は「ふるさとは変わるも優し変わらぬも優し」と歌っているが、幾度となく臼杵へ帰っている。晩年は、十四歳まで育ててくれた叔母キクを見舞っている。

  さらばとて別辞まおせば叔母上は母代なれや泣きたまふなり

 昭和十九年養母カズ子の大往生を見届け、翌年叔母キクを弔った。二十四年には愛妻にも先立たれた貞彦は、三十三年右眼を失明、翌年全盲となった。二年間入院、手術後視力を取り戻し、「もう一度臼杵を見たい」と家族と共に帰郷を果たした。そして歌集「目に泌む故郷」を出版した。三十八年、貞彦肝硬変で再び入院することになった。

  
こちこちにふくれし腹が昨日よりにはかに細り息づきにけり
  まくら辺の瓶にさしたるかまつかにわが病室も秋めきにけり


 これが絶歌となった。その恵まれない家庭環境のなかで堂々と正道を歩いた中根貞彦。彼を先生と慕う首藤定、一万田尚登、福田平八郎などで貞彦の歌碑(孝碑)が臼杵城跡公園に建立されているが、彼を知る人は「誠実、潔癖、純粋で恩義に対して感謝の念の厚い人であった」と記している。

 昭和三十九年、中根貞彦は八十六才の生涯を閉じた。葬儀は導師十名による続経のなか焼香者は、数千人が列をなし、弔電は七千通にも及んだ。
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