第30回 矢掛の宿場まつり <2/7>
 参勤交代 -- 大名行列 --

 徳川幕府は、1635年「武家諸法度」という大名を取り締まるための法律を定めました。その中に「大名、小名は領地と江戸に交代で住み、毎年4月中に参勤せよ。」との参勤交代の制度を定めていました。統制のため諸大名を江戸に参勤させ、在府、在国を1年交代とし、その妻子を江戸にとどめて事実上の人質としたのです。この参勤交代は、道中の費用、江戸屋敷の維持費等に出費させ、離反を防ぐ巧妙な手段でした。

 また一方で参勤交代は地方の経済、交通機構の整備や文化の交流につながり、江戸はもとより街道や宿場の繁栄につながりました。山陽道の宿駅、備中矢掛宿もその一つで、元禄期のころ(17世紀末)には山陽道では数少ない本格的な輸送施設を備えた宿場集落を形成していたのです。

 参勤交代は1670年代までは海路瀬戸内海を通航するのがほとんどで、陸路はごくわずかでした。ここ矢掛宿においては1700年代に入って駅制の整備が進み、陸路の通行が安全で簡便なものとなり増加しました。1770年代に入ってさらに増え、幕府御用が年平均6通行、参勤交代が年平均15通行あり、その後幕末までこのペースが続きました。

 今では時代劇にしか見られない華やかな大名行列が、ここ矢掛町では毎年11月第二日曜日に行われ、「下に〜下に〜」の声とともに、人々を江戸時代へとタイムスリップさせてくれます。

   

 

(左)(右)今でも当時の“宿札”が数多く保存されていますようですネ(^.-)☆

  

(中)“土公神”--- カマドの神様なんですねぇ〜

   

  

  

   

   

 

 ■本陣(石井家)

 本陣(石井家)は北向きの屋敷で間口約20間(36m)広さ約1,000坪(3,164u)この町第一の規模である。本陣屋敷は、御成門を前に玄関、上段の間を備えた威儀正しい構えである。

 大名が出入りした御成門を入ると本陣屋敷の玄関がある。玄関より帳場、広間、三の間、二の間、次の間(御次席)と続き、一段高い部屋が上段の間で大名や公卿の休泊したところである。

 上段の間は、8畳に床と違い棚がつき、茶室風の形式を取り入れた柔らかい雰囲気の書院造りで、桃山末期のものといわれる欄間には「ブドウとリス」が彫られ、障子は2本、3本の交互のタテ格子で構成され、品位の高い優雅な感じを与えている。この間から畳廊下を経て、嵐山を借景として取り入れた中庭、湯殿、化粧の間、雪隠(引き出し風)などがあり、昔のまま保存されている。
 なお、本陣屋敷の瓦には、「元和申年新建の家、元禄15年唐破風を添」と銘があり、以後正徳年間(1710年代)に再建と伝えられている。

 本陣の母屋は、入母屋造りの木造葺きである。縄のれんをくぐると広い土間になっていて間取りは複雑である。
 土間にある大きな土公神様(カマドの神様)、屋根裏の壮大な木組み、壁など、民家の美しさを満喫することができる。

 裏に廻ると、酒造関係の建物、米倉、絞り場、麹室などが棟を並べ、裏口に裏門座敷長屋が見える。この長屋は、宝永3年(1706年)備中・森家の西江原陣屋(井原市)から移築した由緒あるものである。
 なお、この長屋の老朽に伴い、昭和47年に解体修復した。

 本陣石井家の元祖は毛利元清の家臣・石井刑部左右衛門秀勝でその三子喜元が元和6年(1620年)に古市より移転したと伝えられている。

 1687年代、石井治郎右衛門のころ、大庄屋役を勤め「佐渡屋」と号し、酒造りも行って、近世初期以来矢掛筆頭の豪商であったことが偲ばれる。

 宿泊大名は、年平均14家、西中国(萩、石見、安芸)、九州(唐津、肥前、筑前、筑後、薩摩)大名で、行列の総数500〜600名で構成され、本陣を中心として町全体に宿泊した。今なおその当時の宿札が多く残されている。長屋以外を昭和61年から平成3年の5年間約5億6千万円を投じて解体修復をし、その勇姿を現した。
--- 矢掛本陣パンフレットより ---

   

  

   

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