“大和郡山城” <1/3>
  

大和郡山城の歴史

 大和郡山城は当初、大和に数多 くある城の一つに過ぎなかった。しかし1580年に織田信長の命令によって筒井順慶が筒井城から移り本格的な城郭を築いてから近世の城としての歴史が始 まった。

 その後、筒井氏は伊賀上野に移封になり、豊臣秀吉の弟・大納言秀長が大和・紀伊・和泉の大名の城主として入城し、大増築を行った。この時、石 垣が足りなく奈良の大乗院の礎石なども運ばれたという記録が残るほどの大工事だった。

【逆さ地蔵】

 逆さ地蔵は、天守台の北側にあり、石垣を作った際に、徴収された石の1つである。他にも何 個かあるそうですが、確認できるのはこれ一つだけだそうです。地藏までも使われたということは、当時の秀長の権威の強さがわかります。--- ご覧の画像の通り、岩垣の上部に使用されています ---

 そのおかげで100万石の太守にふさわしい立派な城が完成したが、秀長と養子・秀保が相次いで亡くなり、御家は断絶。そのため、五奉行の一人、増田長盛 が移封されるが、関ヶ原の戦いで西軍につき、改易。

 その後は徳川幕府から派遣された奉行が管理を務めた。1615年4月、大坂夏の陣が起こると、豊臣軍は徳川軍を抑えるために大和郡山城に攻め 込み落城した。大坂の陣が徳川軍の勝利で終わると戦功第二と賞された水野勝成が移封される。しかし彼も5年程しかおらず、備後の福山城に移封された。

 その後、松平・本多氏を経て、1742年に柳沢吉保が15万石の大名として移封され、そのまま明治維新を迎える。そして城は不要なものとして 破却されたが、戦後、復元された。現在は大和郡山市の顔として、また桜の名所として有名です。

 こんな経緯があったようですけど、堀の深さが仲々印象的でした。
 落ち着いた雰囲気の大変イィお城です。天守閣等が現存すれば仲々の名城だったものと推察されてしまいます。

 せっかく訪れる機会に恵まれたのだから…と、何枚も画像に納めましたけど、冷たくて手がしびれてしまいましたよ(^-^;
 冷たいとは感じませんでしたけど、手がしびれる事を考えれば、今朝は天気予報通り随分気温も下がったものと思います。
 
 昨夜は大変綺麗な月が出ていましたけど、今朝もまた西の空に大きな月。久し振りに美しい月を眼にしましたようでした(^.-)☆
 大和郡山に到着前、近鉄橿原線の車窓から郡山城方向に浮かびました大きな月…これもまた大変印象に残ってしまいましたよ。

 それでは、また“大和郡山城”を画像でご案内させて頂きますネ(^-^)/

  

(左)(中)どちらも東生駒駅近くの景観で昼食時に撮りました (右)近鉄奈良線近くの大和郡山城の 入り口付近の景観です

  

(右)仲々立派なお堀です これだけ立派ですと攻め落とすのは結構難しかった事でしょうねぇ〜

  

 

(左)追手門 (右)多聞櫓  いずれも復元されたものですけど、仲々立派でした(^.-)☆

  

(右)城跡会館:旧県立奈良図書館の建物だそうです

城跡会館:旧県立奈良図書館の建物だそうです
  
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