柿 と 紅 梅
山本豊野・保喜遺歌集
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| 山本豊野・保喜遺歌集表紙 | 遺 影 |
柿と紅梅 山本豊野・保喜遺歌集 目 次
│
目 次──────────│2│
ま え が き────── 山本保喜│4│
兄 弟 へ の 手 紙────山本保喜│6│
第一部
山 本 豊 野 遺 歌─────│9│
余 生──────────│10│
娘
──────────│14│
春 の 歌──────────│16│
夏 の 歌──────────│21│
秋 の 歌──────────│23│
正 月──────────│26│
冬 の 歌──────────│29│
旅
──────────│33│
柿 と 紅 梅────────│ 36│
庭
──────────│41│
茶 の 間──────────│ 48│
夜 の 歌──────────│ 54│
夫 老 ゆ──────────│ 56│
夫 入 院──────────│ 59│
夫 亡 き──────────│ 60│
仏 壇──────────│ 66│
第二部
保 喜 遺 歌「回 想 の 父
母」──│69│
墓 参──────────│ 70│
母 老 ゆ──────────│ 71│
春 秋──────────│ 74│
林 檎──────────│ 76│
雪
──────────│ 78│
病 院──────────│ 79│
永 訣──────────│ 83│
第三部
保 喜 遺 歌「折 に ふれて」──│87│
春
──────────│88│
梅
雨──────────│94│
夏
──────────│95│
秋 ──────────│97│ │
冬 ──────────│105│
旅
──────────│110│ │ │
散 策──────────│115│
街 ──────────│120│
友
──────────│126│
亡兄の遺歌を選んで────頓宮幸子│127│
第四部
故 人 追 悼 歌
集───│129│
嶋 武 志 様 詠──────│130│
山 岸 和 子 様 詠──────│131│
福 岡 薫 様 詠──────│132│
頓 宮 幸 子 詠──────│134│
亡 父 追 憶────────│ 134│ │ │
余 命──────────│135 │
│
入 院──────────│ 137│
永 訣──────────│ 141│
面 影──────────│ 143│
亡 兄 追 憶────────│ 147│
第五部
追 悼 文
集──────│151│
亡父母、亡弟を偲ぶ───│ 山本 正也│152│
亡夫を偲ぶ──────│山本 睦子│156│
永遠に消え去った人達のこと─│頓宮 幸子│157│
亡母を偲んで─────│鈴木美智子│161│
祖父母のいろいろ────│鷲見 美葉│163│
縮んだシャツと食べかけのハンバーグ
│
│
あれから十五年それでも白木蓮は咲き続ける│山本 有意│164
おばあちゃんのこと──│ 加藤 佳苗│170│
三浦三崎の想い出───│ 山本 勉│171│
山本豊野・保喜遺歌集
出版の経過│山本 勉│184│
故山本保喜記
「山本豊野遺歌集のまえがき」
母は晩年、嶋武志氏のお勧めにより『創作社』に入社し、歌作をたのしみにしておりました。
もとより文学的な素養も経験もなく、ただたどたどしくその時の思いを綴るだけでしたが、それでも昭和五十九年から平成元年までの短い間でしたが、歌作りは母の老後の慰めの一つであった事は間違いありません。
特定の師についたり、独自に研鑽を深めたわけでもないのですが、いま遺作としてこれらを読み返してみますと、子供としては到底棄てがたく、胸に迫って来るものがあります。
私も母より少し遅れて『創作社』に入り現在まで歌作を続けており、また、妹もその後『創作社』に入社し、細々ながら作品を出詠しております。
そこで母の遺作をまとめてみるとともに、私と妹の母について詠んだ歌を加えて山本豊野遺歌集として編むことにしました。
実は来年母の七回忌を迎えます。この遺歌集はそのための記念としたい考えです。ですからこの歌集は決して広く人々にお配りするのではなく、親戚、遺された子供たちと、そして親しくしていただいている少数の歌友や知人達を念頭においています。
母は明治三十九年、福島県白河市近郷の農村に生れました。
東京に嫁してきて五人の子供を生み、育てました。いろんな苦労は誰でもの事ですが、終戦直後の母の奮闘ぶりは今でも私達の語り草になっています。
そして晩年、父との老人の二人暮らし。父の死後の歌は「孤りの庭」として編集しました。母の歌はこうして見ますと花を詠んだ歌が目立って多く、女性としての心根がしのばれます。なかには山茶花など戦災で焼けてしまった家の庭にあった花も出てきて一挙に半世紀以上前の記憶が揺り動かされたりします。 そして平成七年、母は帰らぬ人となりました。梔子が咲くにはまだ早く、藍色の紫陽花が真盛りに咲き誇っている時季でした。この遺歌集は生涯花を愛し続け、天寿を全うした母への供養であり、また親不孝をし通ししてきた私の罪滅ぼしの一つにでもなればといった気持なのです。
今の世の中、一人暮らしをしていらっしゃる高齢の方が多く、もしこの歌集がそうした方々のお一人の目にでもとまったら望外の幸せと考えています。
平成十二年五月
豊 野 次 男 山 本 保 喜
故山本保喜より
兄 弟 妹 へ の 最 後 の 手
紙
ご無沙汰しております。
さて、このたび山本豊野遺歌集を作ることにしました。
晩年、「創作社」に入会し、おふくろさんが詠み溜めていた歌を一冊の歌集にしてみようというわけです。
実は来年は七回忌なので、その時、例の通りお招きする親戚一同にお配りしようと思っているのです。来られない人には郵送。そのほか若干の知人にもお贈りするつもり。
そもそも自費出版の歌集なんていうものはみな”ひとりよがり”なものですが、この山本豊野遺歌集は私達の母親にたいする供養ですから文学的価値は問うところではありません。
けれどもおふくろさんの歌は、読みようによっては、悲痛なまでの孤独感があり、暗くなってしまいます。
そこで私達も何か一筆つける事にしてはどうかと思いました。
私と幸子はおふくろさんについて詠んだ歌を、その他の兄妹には簡単な文章を載せたらどうかと、考えています。勉については、もし出来れば文章の他におふくろさんに関する俳句を三句でも五句でもいいからつけて貰えばなお結構と思っています。
兄貴と美智子については文章だけでいい。幸子についてはすでに出詠を依頼してあります。字数も題材も問いません。三百字でも四百字でもいいし、あるいはその倍でも三倍でも構いません。題も勝手につけてください。エピソードでもエッセイでもいいし、回想記ふうに綴っても構いません。期日も決めませんが、そこは適当に。原稿用紙でなくて構いません。普通の便箋で結構。私がワープロにします。私の歌は 「回想の母」として後に付けおきましたが、読めばいい知恵が出るかもしれません。
「遺歌集」という事なんですが、本人の歌った歌のほかに本人の日常を見守っていた家族の側からのいろんな思いを併記することには意義があり、”供養”にふさわしいと考えています。
製本は「短歌新聞社」に頼もうと思っています。歌集出版は沢山手掛けていますので安心です。それではどうかお元気で。
よろしくお願いします。
平成十二年五月
第 一 部 山 本 豊 野 遺 歌
集
「山本保喜選・勉補選」
余 生
険しくも永かりし道辿りきてせめての余生静かにありたし
老二人夕餉の時にふと思ふ便りなき子ら如何にあるやと
歳のこと考へず日々穏やかに八十路を越えてわれは長命
命永くあれよと如く三日月の冴ゆるを見つつ雨戸をとざす
われはまだ若いつもりよ日々まめに働かす手はふし高けれど
送り来し記念写真をよく見ればわたしはやはり八十の顔
赤のまんまの花を束ねて切りくれぬ街の畠の老いし農夫は
独り居に雨は淋しく哀しけれ恵みの雨と皆よろこべど
花見する媼にまじり八十路なる吾も若やぎこゑはづませぬ
街なかの畠の人に声かけて大犬蓼の花いただきぬ
雨の日も明るくくらす老ひとり太陽のめぐみ多かれと願ふ
人生の終わり近きに悩みあり取り越し苦労と悩みはすれど
娘
同居せる姑上の病ひいかならむ真心もちてつくせ娘よ
生野菜取るようにと娘はレタスなど冷蔵庫に納め母をはげます
病院と婚家を一日五往復娘は強くなりハンドル握る
長生きをしてと孫子のはげますは八十路過ぎたる身に有難し
娘らはつぎつぎ我を招きくれもてなしくれぬ慰めくれぬ
弟の三回忌なり年老いて娘につきそはれ白河に来ぬ
春 の 歌
この花を遠まはりして見に来しと木蓮あふぐ老人の声
さくらより早く咲きいで木蓮はひとりの老の目を楽します
ショッピングカー引きつつ友と桜咲く並木道来ぬ遠廻りして
ひとなみに花見をせんと吾を誘ふ孫の目あてはコーヒーの店
ひとり見る花は淋しと誘はれてあゆめど直ぐに休みたくなる
二分咲きよ三分咲きよとまつうちに満開すぎて葉桜となる
庭隅の乙女椿も咲き出でて一人ぐらしこのうれしさは
待ちわびし桜を見むと一人きて風の寒さに襟かき合わす
木蓮のつぼみいまにもひらかんとし白くはかなき生命のぞかす
白木蓮朝の光にきらめきて花の純白天をおほへり
老木をふはりとつつむ春の雪神のなすわざかく美くしき
花のいのち短く散りて葉桜の若きみどりの季めぐりきぬ
花見客まばらとなりし遊歩道夕暮れを行けば花吹雪舞ふ
葉ざくらとなりても老の身にしみるあした夕べの春の寒さよ
夏 の 歌
はつ夏の光あまねく満ち照れる庭にひととき立ち尽くしたり
戴きし夏みかん五個かびさせてマーマーレードを作る夢消ゆ
梅雨時に思ふ事のみ多くして我はつかれて横になるのみ
みどり深く自然は強く美しい願ひを聞いてと神に祈りぬ
凍み豆腐うす味に煮て老二人変りばえなき夕餉をすます
秋 の 歌
秋めきて悲しきことのみ多かりき早く迎へたし八十三の春
秋雨にこもる日つづく老にのみこの淋しさはある如くして
紅はぎの小枝かれんにゆれゆれて老のこころに秋を知らしむ
道ばたのコスモスの花かぐはしく若き想ひ出あまりに多し
郊外の息子の家に移り住み九月の風は老の身にしむ
あっといふ間のテレビなりしがコスモスの群落われを夢に誘ひぬ
寺庭をうつすテレビに花ゆれて八十路経し身に白萩やさし
正 月
屠蘇のなき正月の膳つつましくひとりすませて牛乳を飲む
年賀状三枚書きて筆を止め老の細腕さすりてをりぬ
幾日もつづく煮染をあきもせず満ち足りて食す夫も私も
松の内のこの静けさにこゑ高く鞍馬謡ひぬこころゆくまで
正月にわが身の歳を感じつつ夫の世話しぬ手抜きもならず
正月の客を待ちつついそいそと手揉みに白き足袋洗ひをり
正月を静かに過ごす老となり夫もおぼろにゐねむる多し
冬 の 歌
南面の障子にとどく陽をまちて炬燵にいつか朝寝してをり
喪にしづむ皇居の空を悲しげに野鳥の群はめぐりやまずも
四季折々に眺め楽しむわが庭の浄きこの雪消えずに在れよ
寝過ごしてあまりの外の明るさにひと夜の雪の深さ思へり
山茶花は想ひ出の花ぞ時うつり今またわれにささやきかける
朝食をとらず寝坊し老ひとり寒さしのぐがくせとなりたり
梅の枝に積もりし雪を茶の間より物干竿にてたたきおとせり
炬燵にて障子にうつる梅が枝を見つつぼんやりうたたねをする
草むらにひときは朱く春を待つ枸杞のつぶら実老われに似る
襖絵の青くかすめる山々を炬燵に入りてあかずたのしむ
銀世界となりたる庭を窓に見て風吹き入るを夫のとがむる
雪晴れの縁のガラスに映りゐて子猫たはむる二匹三匹
青き葉は雪に耐へつつ力あり弱きわれにも春の近づく
旅
立ち待ちの岬に行く末思ふなり老いたるわれの涙もろきに
いか釣りはつらき仕事と老漁夫は吐く如く言ふ夜の海暗し
点々と明かりを灯す沖合のいか釣り船のおごそかに見ゆ
老を忘れ心華やぎ孫達に手を引かれゆく札幌の夜
陽光をまともにうけて雲海の上をわが機は静かに飛べり
列車の窓に見えかくれする那須連峰あかず眺めぬ懐かしくして
柿 と 紅 梅
ここからは庭の紅梅よく見えず部屋を移りて障子開けたり
ひとりにて見るには惜しき庭の梅電話をかけて友を招かむ
もぎとられかぞふる程の残り柿はだかとなりし梢に赤し
今年また送られ来るかころ柿を病み臥す夫と楽しみに待つ
寒かりし春も終りて庭の柿実の成るらしき花芽いでそむ
庭の柿丸く大きな顔をしてもう熟れましたと挨拶をする
庭の柿赤く熟れしがたづね来てもぐ人もなき秋の日の暮れ
庭の梅の咲きそろふころ友らよび茶会ひらかむ想ひふくらむ
晴れわたる障子にうつる寒の梅その枝かげの気高くやさし
朝の戸をくれば目に入る庭の梅うす紅の花としばし語らふ
朝の日はわが紅梅にあたたかく昨日より花の多く咲きゐる
柿の実に寄りきしか朝の鳥の声われをふたたび夢にさそひぬ
柿の実は見るに艶よく枝先に丸きからだを寄せ合ひてゐる
老いの身を用心しつつもぎし柿二つ残して友にわけたり
蕾なき梅のひと枝黒ずめば何とはなしに気にかかるなり
部屋かへて寒さも忘れ紅梅の盛りの花をあかず眺むる
庭
この花はぬかれ棄てらるる唯の花可憐さゆゑに名を知りたくて
さうめんの薬味にと夫にせがまれて庭を探せど茗荷はいまだ
その内と思ひし庭木の枝茂り植木屋の老を呼ぶことにする
わが庭はつまらぬほどに狭けれど名もなき花の命いとほし
わが狭き庭にはびこる名なし草白き可憐の花のいとほし
庭隅の手入れせざりし蘭の鉢亡夫に詫びつつ日当たりに置く
彼岸花つひぞ忘れてゐし花が友の広庭咲きあふれをり
日のめぐみ生き生き浴びて伸び育つ庭のあら草抜くには哀れ
日をおかず庭に茗荷は芽生えむと夫をなだめて手を洗ひたり
梅雨の間も今朝はこぼれ日柔らかく蒲団干さむに水溜りあり
梅雨の闇の今朝はこぼれ陽やわらかし地のしめりて蒲団干せねど
植木屋の剪定あとの片付けに孫の手をかり四日かかりぬ
植木職の地下足袋姿いなせにて剪定する鋏の音ここちよし
燃えあがる落葉の炎あたたかし老の身少し若やいでゐる
自慢するものとても無き庭なれど紅梅散りて咲く白木蓮
若き頃は今より多く掃きためて庭の落葉を夫と焚きたり
落ち葉焚く煙は細く舞ひのぼり老いの身にしむ夕べひととき
落葉舞ふ庭のかたすみ千両の実のくれなゐは目立ちて淋し
雑草の中に咲きゐし可愛ゆき花静かに取りて鉢にうつしぬ
茶 の 間
ひとり居に野菜料理のおすそわけ友の心のあたたかきかな
久しぶりに米を磨ぎたり老独り音をたのしみいつ迄も磨ぐ
何げなき便りにあふるる孫の心ただ嬉しくてくり返し読む
もう家に帰りつきしか気にかかり八十路のわれが子に電話する
倫理説く世論をよそに時の人赤い顔して街頭演説
庭に向く障子に朝日さし初めぬああ太陽のありがたきかな
手にとりし牛乳瓶の冷たきを温めて老の朝餉はじまる
捩花の二本咲けるを玻璃戸越しに見いでて嬉し思はず手にす
歌詠まむいざと勢ひてとりし筆すぐに離して煙草をさがす
毎年の事とて勘にたよりつつ煮上げしジャムの甘さ気になる
沁みじみと玉露を飲めばほの甘くこれぞまことのお茶の味なり
焼芋を昼餉の膳にひとつ置きしみじみ思ふひとりのくらし
甲子園の野球に雨の降りいでぬ東京の空と替えてやりたし
苺ジャム今年もあまく煮上げたり安値をまちてまた作らなむ
息子達それぞれ仕事大事にて泊まりくれよと引きとめもならす
わがめぐり独り暮らしの老い多しそれぞれに皆子はあるものを
夜 の 歌
夜更けて拍子木の音またきこゆ覗けば頬かむりしたる老人
枕許の電話に孫の声を待つ夜更け二時過ぎわれは八十
淋しくて眠りに入れずこよひまた睡眠薬の世話になるなり
街中に住みてもひとり朝明けより夜の更くるまで淋しさ募る
記念写真見れば心のうきたちて独りの夜も老を忘るる
ひとり居のなすこともなく思ふなり離れて住める子らの幸せ
世の中の仕組み楽しや面白や老いたるわれも何かやらねば
夫 老 ゆ
夫老いて我儘となりぬ身体ごと吾にあたるもしかたなくゐる
寝たきりの夫は目をあけ我を見るあまりの清さにいたたまれゐぬ
時に又まともな事をいふ夫をいとしと神はたすけたまふか
木蓮の香りを夫は懐かしみ訥々として若き日かたる
良かれとぞ少しすすめし固形物夫ののみどを通り安堵す
よき言葉ききたけれどもいま夫はあつき病に何も語らず
夫 入 院
声出でぬ夫は目をあけわれを見ぬあまりに浄く澄みし瞳よ
夫の病気見舞ひし今宵はなかなかに寝つかれぬままいつか眠りぬ
望むことみなしてあげたく思ふなり永く病む夫にいまは涙す
萎えてゆく夫の姿のせつなくてベッドの脇を離れがたしも
夫 亡 き
この冬も炬燵つくれど寂しけれ常ゐし場所に亡夫は居らざり
亡き夫に供へしメロン朝食のかはりと孫はよろこびて食う
亡き夫の好みし南瓜煮しことも冬至となりてふと思はるる
亡き夫の煙草盆など今は無き炬燵にひとりテレビ見てをり
亡き夫はいかに思はむ仏壇を供花にいろどる息子の優しさ
亡父偲び老母われを気遣う子ビール片手に何も語らず
今はただ写真の夫と語るのみ天国に住みて静けからむか
夫の死に忘れてゐたる大自然若葉の光にただ感激す
夫の看護にやめゐし煙草われに置き葬儀ののちに子はまた遠く
新盆の灯籠ともし供へ物静かに上げぬ日暮れてひとり
新聞の洗筆欄を半年ぶりに読めば亡き夫いよいよ遠し
木蓮の花が咲いたと大声に告げたる夫よいまはまぼろし
沈丁花に乙女椿の紅そへて夫のテレビの上にかざり
老ひとり静かに亡夫にあはす手がつい傍らの煙草にもゆく
花の中にやさしく暮らす幸せも短くすぎて今夫は亡き
仏 壇
亡き夫に供へしお茶の冷めぬうちを共に朝ごと静かに頂く
今朝も又陽の出ぬ間に薔薇一輪切りて飾りぬひとり淋しく
仏前に供へし飯の強ばれば水を通して雀らにやる
仏壇に供へし花はいとやさしわびる心に夫を拝まむ
仏壇に色とりどりの花活けぬ遠くわが子のたづさへし花
仏壇の供華の水替へほっとせりなすこともなく老いゆく吾は
外出には必ず仏に手を合はせ留守頼みますと声出して告ぐ
彼岸花仏の花にいただきて八日目なるもしをれずにあり
第 二 部
山
本 保 喜 遺 歌
集 回想の父母」 「自選」
墓 参
ひとりにて来し墓なれど水替えて花手向くれば心安らぐ
父の墓詣で来たりてふと思ふ今は寝たきりの母の手料理
父が手を振るごと香の揺らぐ見て一人来し墓去り難くをり
母 老 ゆ
皺深き手を組み母のいます庭紅梅うすき花散らしをり
熟れし梅もぎては深き皺の手に母の掲ぐる小籠に落とす
老母の住まへる庭の梅の実をもげども今日は誰も訪ひ来ず
老いましし母置きて帰る夜の道に責むるがごとく雷雨降り出づ
素麺をわが茹でやれば病む母の頬に一すぢ涙の伝ふ
心弱くなりゐる母を立たせむと言葉怒りの如くなりゐつ
味噌汁にトマト入れむとする母の頬の明るさ吾は悲しまず
春 秋
足曳きて初詣でする老母は背を丸めつつ祈りいませる
桜咲く下に屈まり老いましし母は菫の花を見てをり
老母の独り守りいます仏壇の枯れし野菊をいたはりて捨つ
改築に合意はなせど母は呟く五十六年此処に住みきと
老母が指触れて上げし葉のしたに金木犀は莟ふふみをり
老いたまふ母一人住む家の柿もぐ人もなく梢に熟るる
過ぎし人のこと語りつつ母の折る首なき人形首すげてやる
林 檎
故郷より送られて来し林檎ぞと耳に口寄せ母に握らす
林檎剥き母に持たせぬ若き日は吾に剥き賜びし手練のその手
わが剥きし林檎を握る母の手の細しよ臥して一年を経ぬ
故郷の林檎食します寝たきりの母の噛む音目を閉ぢて聞く
雪
雪の降る音を聞きつつ老母と真夜を対き合ふ言葉少なに
門に立ち見送る母は悲しみの旗のごとくに小さく手を振る
吾を送る母の淋しさ知りてをれど手を振るのみにこの角曲る
病 院
梅今年たくさん生るよと言ひ置きて母は担架に運ばれゆきぬ
病院に母を送りて白木蓮の散る花独り庭に見てゐつ
病院を出できし道に桜咲く母に最後の春かも知れず
退院せる母は正座し咲き満つる乙女椿に見入りて静か
検診に行くとふ母の穴明きの靴下あはれ穿きかへさせぬ
寝台に両手縛られゐる母の包丁持て来と呻くがに言ふ
木々芽吹き桜散り果て老いてゆく母に修羅あり看取る吾にも
花好きの母なりしかば車椅子にて躑躅見せしが今表情もなし
好物の佃煮あれば食すといふ母に購ひ来ぬただそれだけを
灯点さぬベッドに両手繋がれて母あり我の責め負ふごとく
永 訣
永訣の近き知れれば同胞と母を語りぬ正月二日
母一人住みゐたる家に紅梅の匂ひてあらむ春になる雨
夜をこめて雨音しるき霊安室まだ息あれと念じつつ侍す
花に抱かれ二度と開かぬ母の目の御睫毛いまだ黒く美し
亡骸に最後の手向け庭に咲く額紫陽花を母に供へぬ
父います彼方へ渡るわが母に足袋履かせ右手に杖を添はする
柩舁き家出づる時「お母さん左様なら」とふ言葉にならず
梔子の花待たずしてゆきませる母のみ骨もかく白かりき
第 三 部 山
本 保 喜 遺 歌
集 「折にふれて」
「自選・頓宮幸子補選」
春
花韮はやうやく咲けり小さきは小さきもののよろこびを持つ
虫食ひの葉も混じへつつプラタナス我が行く道にははやくも陰おく
花水木赤き葉陰にそれよりもなほ朱深き実を隠し持つ
脈絡もなく軍歌など泛びきて春の乾ける風に吹かるる
散りつつぞ赤きつつじは濡れそぼちしどけなきまで春は乱るる
春闌くる川面は鈍く光りゐて舟はさみしき水泡曳きゆく
ほほけ立つ蒲公英日ごと数増して春の訣れの風に首振る
おのずから春は深まり馬鈴薯の若き葉揺らし風わたりゆく
道端の野稗は露を育てをりたけなはの春いつか過ぎゐつ
葉桜は葉裏をかへし吹かれをり寝たきりの母ありて一年
純白の光あつめて白木蓮は音立つるごと開きそめたり
散りそめし白木蓮は潔白をなほ保ちつつ地に身を委ぬ
春雨のまだ去り難くリラの花はかなきまでに紫うすし
直線の道路を抱き欅の木空狭きまで青葉あふるる
陽炎の河口にもやふ白き船揺らすともなき春の上げ潮
誇り高き菜の花の黄は野をわたる風に抗らひさわに波立つ
春の潮西河岸橋に澄むときに自転車白く沈むが見ゆる
咲き闌けていまは散るべく八重桜春の時雨は枝に重からむ
梅 雨
梅雨いまだ明けぬ七月尽の森雨降り止めばひぐらしの鳴く
乾きたる土に滲みいり降る雨に心穏しき今日の梅雨入り
梅雨果つる強き雨ぞと大屋根はしづかに堪ふる甍濡らして
夏
遠くより向日葵は見ゆ道の向ふ金のみほとけおはすがに咲く
ありとある石の罅より夏草の一夏かぎりの命もえ立つ
残り花少なくなりし百日紅くれなゐ冴ゆる散らむ日のため
ひたひたと晩夏の帰潮薄青し橋下の水の夕あかりして
こらへきし長き夏の日みかへれば樹陰は熱気こもりて暗し
秋
かがやきを高くかざして泡立ち草今年も咲けり風伴ひて
早まれる一本のみが黄葉せり冬は気づかぬやうに寄せゐつ
ゆっくりと首垂れて来てクレーンは静止す秋の安らぎの上
行き帰り見し工事場の深き穴今朝塞がれぬ秋の陽やさし
いそしみてわが行くビルの狭間にも向日葵が咲きコスモスが咲く
枝打ちの人は見えねど街路樹のたわわなる枝音立てて落つ
灯火にじみ空気昨日と異なれり日本橋界隈秋づけるらし
木犀ははや散り果てぬ地上には箒目洩れし金の一粒
終焉の冥き海へとビルの間を落葉川面に彩なしてゆく
一人居に秋刀魚を焼ける匂ひ愛し来し方泛び換気扇まはす
公園の木々のもみじ葉懐かしも武蔵野一郭飛び来しごと
枝の揺れつぎつぎ移り森の上を立秋の風わたり行く見ゆ
通ひ来し道の幾歳この秋は踏み行く落葉日毎に深き
五畝ほどの穂は銀白の波うてりこの河川敷のすすき滅ぶな
曼珠沙華秋ともなればここに咲くそのくれなゐを見むと我が来つ
墓はみな亨保天明天保にて彼岸花一つしづかに朱し
ゆきずりに聞く異国語の声冴ゆるプラタナスの葉黄ばみそめたり
白樺の群に混れる岳樺ひともと細し秋来る
街頭の並木はしづかに葉を垂れてさても素直に秋に入りゆく
秋立てばゑのころ草の穂は茂り兵の寄せくるごとく靡けり
満山の紅葉を見たり足曳きて来し登山道いまは帰らむ
冬
鋼材を縦横に組む工事場にひとつかみほどの冬草青し
粋なせる鉄筋の間に冬月の玲瓏と出づ昨日も今日も
縄のれん人影薄く戸に動き甘酒横町年の瀬となる
ひとときかはた小半刻酔ひゐたり醒むれば闇の冬夜茫々
一葉もなき並木道老いし幹悔いの如くに瘤あらはなる
冬の朝人も畠も動き出づはうれん草は籠に満ちつつ
渾身の黄を咲きつくしつはぶきの花はしずかな夕闇となる
この年も冬に入りつつつねのごと甘酒横町幟はためく
涙には気づかぬふりし別れ来ぬ落ち葉かそけく靴に鳴るなり
年あけの朝の川面をいっせいに橋の群鳩対岸へ飛ぶ
寡黙なる人らに混り丸善に新年の手帳わが撰びゐる
老二人の過ぎ来し一生も包みつつ雑木林に落葉降り積む
寛政と彫られし馬頭観音碑少し傾き冬風の中
冬草は空缶枯草おし分けて力ある葉を日にそよがする
旅
百年を経し祖父の墓所旅に来て同胞集ふ深き思ひに
遠つ祖の生うけし海はるかより潮押し来たり今日も逆巻く
白壁の道出でしとき唐突に若狭の海は青くひろがる
ポスターの花は真盛り旅に出でよ出でむか空に白き雲行く
旅愁などあるやあらずや切符一つ機は北を指す尾燈点して
旅たちてゆく空港の日本のコーヒーカップその白き色
旅立ちていづち行きけむ空港に小さきパンを食みてゐし人
かへり来てまた仰ぎ見ん八千の高度か今は富士も小さき
桜島の白き噴煙目に残し高度八千故国と別る
峰つたふ秋草の径霧深し先行く妻の帽子の白き
吹きわたる風には揺れずトリカブト紫の花ひっそりと咲く
潮風の角度変わりて卓上のジョッキ傾げり船回るらし
星もあらぬ夜のクルーズデッキより遠花火見え人の恋ひしき
渓谷に額紫陽花は群なせり山上の霧ここまでは来ず
さみどりの若き芽萌ゆる槻の木を目印にして自転車を置く
萌え出でて銀杏若葉は喜びの声上ぐるごと空に手を振る
散 策
枝にある花より白く散り溜まるその命終の花の名を知らず
散りつぎて又咲きつぎてアベリアは雨降れば白き花揺るるなり
何となく心安らぐ幹太きこの楡の木を過るにいつも
病みあとの日課の試歩を果たしたる夕べ安けき一合の酒
試歩の歩をゆっくりと踏むわが靴に緑地公園土温かし
木漏れ日の疎林に咲ける山吹の一叢しんと守り手のごと
暮坂の日照雨明るし歌人像
愉しむごとく濡れて光沢めく
くらげ一つ泛べて春の潮寄する西河岸橋はゆく人まれに
堂裏の暗き墓処に曼珠沙華幻のごとひらきてゐたり
天くだる白き光と思ふまで泰山木はわが前に佇つ
見かへるを待ちてゐしごと仄白く道のほとりのユッカ明るむ
肉厚き地蔵菩薩の御体躯亡者幾万救ひたまひし
常盤木の色濃き森の高枝に雪崩るる如く藤の紫
大聖武写し終へたるわが指の衰へもまた仏縁一つ
街
ビルの窓春日なごみて好不況かかはりもなきひと色の列
雀らにパン屑投ぐるホームレスの雀らよりも無心なる顔
鋼鉄は命あるごと高架路の湾曲重く頭上に撓む
振り向かず人行く橋の鉄骨に水の反映ゆらめきつづく
駅に入る老朽車両鋼板の凹凸夜の灯にあらはなり
ビル建つと町に掘られし穴深き千年前の黒き土見ゆ
ビル建つる深き穴より古き代の倒木揚がる光浴びつつ
工事場に掘られし穴の地の底の溜まり水秋の空写すなり
暗闇を抱ける鉄の頂きにクレーン孤り夕映えてをり
降る雨の已む間なければ道端のあかざの露の玉をよしとす
高架路を越えて聳ゆるビル群の立体幾何学夕日に映ゆる
白塗りの西河岸橋は春深し手すりにうすく埃たまれり
浮浪者を一人憩はせ春の午後西河岸橋ははにかむごとし
誰も居ぬビルの土曜日勤労の亡霊のごと吾はきてゐる
花水木赤く染まれりこの道を行く日終へなん職退かんとす
友
自分史の「戦火くぐりて」編む君に今も消えずやキスカの霧は
(歌友 島賢三氏へ)
酔えばただ無暗に人に電話する電話魔に吾も時になりたし
過ぎゆきはみなやさしかり退職の別離の言葉軽やかに告ぐ
亡兄保喜の遺歌を選んで
頓 宮 幸
子
あまりにも突然だった保喜兄との永訣は周囲への衝撃が大きく、私にとっても悔やまれることばかりでした。手元に「創作」誌四十数冊があり、保喜兄の二百余首の中から、私好みでその実像を多少伝えているようなものを選んでしまいました。
自分のことは語らない性格で、美しいもの、清らかなもの、弱いもの、衰えゆくものへの深いいたわりと、そっと後ろから優しいまなざしで見守っていく愛情の持ち主だったと思います。
私にしてみれば、その感受性の鋭さ、繊細さがどんなに保喜兄の生き方に苦悩を与えたかとさえ推察されます。ともあれ、一つの生が終焉を迎えたということ、その人生がなんであったのか、まだ私はショック状態のまま、山本保喜という人の生きようを模索しているのです。
降り籠もるスイス旅行のペンションに急逝したる兄を思ひつ。
八月四日
第 四 部
故 人 追 悼
歌
創作社の歌友である嶋武志様、山岸和子様、福岡薫様のお三方より山本保喜の死を悼む
追悼歌を頂きましたのでご紹介させていただきます。
嶋 武 志 様 詠
水上の会に際して親しく語りしが山本保喜なぜ死んじまった
星晶に保喜の歌が良く載りて親友なれど妬ましかりき
山 岸 和 子 様 詠
繊細な自然詠をば多く詠み勉強ノートに熱心さ見つ
辛口の批評に耐えてわれらみな少しづつにも上達せしに
水上のホテルのロビーに佇みゐし氏を憶いをり茫然として
福 岡 薫 様 詠
五日後の歌会に逢ふを待ちゐしに受けし訃報を茫然とただ
腰痛の術後小幅に歩みつつ歌会楽しと月々来ましき
亡き母の歌集編まんと意気込みて稿重ねしをつひに果たさず
をろがめる柩の窓に生くるがの君は眼をつひに開かず
通夜の帰路襲いし台風雨しげく漕ぐ自転車に眼鏡のくもる
追 悼 の 歌
頓 宮 幸 子
亡父追憶
「笑む顔を見せてくれよ」と言ふ父へ笑み作りしが最后となりて
命終の近きを覚らず病室を去る吾に父の眼永訣告げゐし
亡き父の使い残せしお花墨傾き減るをなだめつつ磨る
余 命
白く光る庭砂利見つつ唐突に母の余命の胸にせまりく
錯乱の会話なれども病む母と語り合ひする時のいとほし
若き日の母に似合ひし紫を今は好みてわれも装ふ
仏相とも夜叉とも変る母の寝顔終の日近きかと心おののく
昔幼き子等そのままに気遣ひて問ふ母に空しき相槌を打つ
病む母の愛でましし柿は夕映えの人無き庭に点々と落つ
入 院
入院をさせむと連れ来し病院を「ここ区役所か」と母は問ふなり
透きとほる瞳となりて臥したまふ母の病窓夏雲白し
いつしかに佛の相となりし母車椅子にて頭下げゆく
車椅子の母のかぼそきわらべ唄忘れじとして眼蓋閉ぢ聞く
冬空は冴えて今年も保ちさうとバスに揺られて母を見舞ひゆく
今日もまだ生きているよと言ふやうな眠れる母に手を触れてみつ
手触るれば硬く小さき母の頭に命永らへと枕を当てぬ
アルツハイマーの母は能面の顔を向けベッドの傍のわれを凝視す
見舞ふたび母はうつろな目を上げて家に帰せとのらすせつなし
寝台に四肢を繋がれ臥す母の声なき叫び聞くごとく居る
両手足ベッドに繋がれ臥す母の御目は深き湖の色せり
父逝きて母入院の小暗き部屋に過ぎこしことども鎮まりて充つ
大晦日に一口ほどのお節包み母を見舞ふが慣ひとなりつつ
母や妻でありたる人の溢れたる老人病棟ひそと昏れゆく
病院の窓に小さき母の手は見へなくなるまで吾を追い振る
呆けたる母の思ひは過ぎて来し家族との日々続いてをりぬ
永 訣
「辛いの」と問ひたる吾にうなづきしが母と最後の会話となりぬ
再びは瞼開かぬ母の顔われの知らざる母となりたり
激しくも子らを求めたるまなざしの永遠に閉ざされ母旅発ちぬ
葬り終へ戻りし庭に紫陽花の藍冷えびえと咲き満ちてをり
命あるを信じて母に贈りたる老眼鏡むなしくわれに戻り来
悲しみを埋めむと母の生前に作り給ひし木目込人形飾る
かたはらに亡き母の着物たたみ置き心安らぎ暑き夜を眠る
面 影
気懸りな母へ電話とダイヤルに触れて目覚めぬ母すでに亡き
亡き母の声凛としてわれを呼び目覚むれば闇に声のみ残る
暗闇の中に目覚めて逝きし母に幼女にかへり甘えてゐたり
食べないと死んでしまふと言ひし吾に亡母は微笑みのみを返しき
車椅子にて童女のごとく紙風船を打ちゐし母よ今も目に見ゆ
柔らかな日の差す野道亡き母の靴履き歩むゆるく踏みつつ
人見えぬ空き地に燃ゆる葉鶏頭遠き日母の育てゐし花
葉鶏頭真紅に咲けば母を隔てし幽明界といふを思へり
展示会の母を追慕の吾の書に老女足止めうなづきて去る
秋刀魚焼きおろし添ふれば思ひ出づ亡き母いつもかくし給ひき
秋陽深く賑ふ墓地の供花のなか父母の顔いつまでも泛ぶ
亡き父の欠けたる硯ありし日のその生に似るをいたはり使ふ
老いゆくにあまた修羅あるを知らされし母亡くしたる夏の過ぎゆく
亡き母の思いこもれる紋倫子を兄は黙して吾に与えぬ
喪の葉書小さき活字の母の名は物言はぬまま訣れ告げゐつ
しもやけの小さき我が手を治さむと亡き母煎じし熱き蜜柑湯
兄保喜追悼
くちなしの散り果てまなざし優しかりし兄は静かにそっと逝きたり
急逝の兄のワープロ書き溜めし歌草あまた書斎に残る
さり気なき兄との別れ寂し気な後ろ姿が最后となりぬ
兄の柩葬ふ炎に従いてふらりと進む義姉抱きとむる
兄の位牌バックに入れて買い物にと義姉の電話の声は明るき
参道の椀子そばを兄と食みし日亡母語りて共に和みき
作りかけの母の遺歌集残して逝きし兄は吾等を如何に見つらむ
亡兄の吾への便り優しかり細かき文字のぎっしりと続く
第 五 部 追 悼 文 集
亡父母、亡弟を偲ぶ 山 本 正 也
「『お前やれッ!』と兄貴が言った。」と勉が口を開いた。平成十二年七月六日の昼下がり、前夜急逝との報を聞いて駆けつけた兄弟たちが、ヤヤ赭ら顔の眠っているような保喜の焼香を終えた時だった。
「おふくろの遺歌集、オレが引き受けた。」と、遺体に誓うように沈黙を破って勉は言葉を続けた。
保喜は、死の直前まで母の遺歌集の編集を続け、その刊行に心を砕いていた。
その遺歌集には、母が晩年に詠んだ短歌を主として、母の追憶を詠んだ保喜と幸子の短歌、勉と美智子の回想文を載せ、文学的価値は二の次としても母の七回忌の供養として刊行し、同日ご参集をお願いした親戚の方々にも配布する、というものであった。
母の七回忌は、即父の十七回忌であり、その法要は平成十三年五月二十日に行うことにきめていたので、その日に間に合わせるとして準備を進めていたが、その中心であった保喜の思いがけない死によって、遺歌集に載せる予定だった作品も、遺歌として載せなくてはならなくなってしまった。まことに残念であり、口惜しくてならない。
この保喜の遺志を受け継ぎ、弟勉が取り組んだのである。
思わぬ病患によって隻眼となってしまった勉が、兄保喜の編集に基づいて、「山本豊野・保喜遺歌集」として再編集するため、肉体のハンデを背負いながら意欲的に取り組み、妹幸子には歌友でもあった兄保喜の生前の短歌の編集にあたらせ、幸子も自分の母追慕の歌と、兄を偲ぶ歌をよせ、勉と末妹美智子は母や兄の想い出の一文を書いて再編集し、何度かの推敲を重ね、残された兄弟達が、それぞれの力を積み上げ、勉が取り纏めて編集にあたり、短期間であったが、漸く発刊に漕ぎつくことができ、ここに保喜の遺志が日の目を見たのである。
思えば、母は、晩年の昭和五十九年頃七十八歳で嶋武志氏に勧められて創作社に入会し短歌を詠み始め、当時は遠方に居住していた息子達や嫁いだ娘達のことを思いながら、老いた父と二人だけの日々を送っていた。
そんな父の面倒を見ながら、移りゆく自然を詠み、草花を愛でては自分の身近な生活環境の中から目についた事象を素朴に詠みあげていたようだった。
その頃、京都に勤務していた私が上京した折りに母を訪ねると、母は「こんな歌ができたよ。」と嬉しそうな顔をして話したことを思い出す。
父は翌年の五月十日にこの世を去ったが、兄弟達の中で、一番早く都内に戻ってきたのは保喜だった。保喜は、自らも短歌を詠み、母と同じ創作社に入会し、ともに楽しみながら短歌を詠んで、親子であると同時に同好の士としての交流をも行っていた。母が晩年になってから幸子も創作社に入会し、短歌を詠み始めて、保喜と二人で、母の入院中も、母の死後も短歌談義に花を咲かせていた。こんな老後の母は平成七年六月二十二日八十八歳で、はからずも父と同年齢であの世に旅立ったのであるが、そんな母の歌を読み母の死後、その歌をそのまま棄てがたく思った保喜は、母の遺歌集の発刊を思い立ち、母の詠み溜めていた作品を伝えて兄弟達に協力を呼びかけてきた。
保喜が伝えてきた母の歌を読んだ時、短歌や俳句などは親に似ず朴念仁な私であるが、高齢になって詠んだ母の作品の、感性の豊かさ、ナイーブさに驚き、女でなければ詠めない細やかな歌であったのに感心してしまった。
母は、長所もあり短所もある平凡な女性であるが、どちらかと言えば勝ち気であった。
そんな母であったが、その作品を読むと、「遺歌集を出したい。」と言った保喜の心情も十分に理解できた。その保喜の意志を受けて弟妹達は協力をしたのであるが、その保喜の意志が、今となっては遺志になってしまった。
生前の保喜と遺歌集編集に当たり、父の俳句をどうするか、と相談したことがあった。
母だけの遺歌集というのは不条理であり、遺歌集を出すなら、父の俳句を編集して一括して刊行すべきである、と考えたからである。
若い時の父は趣味の中でも俳句作りにはかなり熱を入れていた。今はもう廃刊になってしまったかもしれないが、「馬酔木(アシビ)」「土壌」などという句誌が何冊か家にあったこと。
「この字、何と読むの?」と、小学校の高学年ぐらいだった私が聞くと「アシビだ。」と言って教えてくれた父が、その本を拡げて読んでいたことが遠い記憶に残っている。そして「句会だった。」と言って夜遅く帰宅し、「賞品だ。」と、何点かの物品を母に手渡していた父の姿が何度かあったことを覚えている程度である。いずれも戦前のことであり、当時の父の作品や書かれた短冊などは、悉く戦禍によって焼失してしまった。
その中で我々が、辛うじて覚えている父の句は、「冷奴象牙の箸を滑りけり」というのがあるくらいである。
戦中から敗戦、そして戦後の大混乱の時期は句作などは思いもよらず、父も句作らしい句作はしてなかったようで、作品らしいものは殆ど残していない。
戦後の混乱も納まって、一段と年老いた父は、いくらかは句作を復活させていたようであったが、それも自分の慰めが主たるもので、どこの句会にも属せず、参加もしなかったためか、転宅、新築、増改築等の混乱によって、これらの作品も散逸してしまった。
「どこかにないものか。」と保喜が捜し回ったが、遂に発見できず、「兄貴、ヤッパリ無理だったよ。もしかしたら国会図書館の古くからある俳句雑誌の中には、あるかも知れないが?」と当惑しきった顔で答えたのが、父の俳句取扱の相談の結果であった。
後日、幸子から、父は自らの作品の大部分を人知れず処分してしまったようだ、と聞かされた。
「父は俳人であった。」ことは、薄れていく記憶の中の思い出だけになってしまった。
そして、今回の遺歌集は母を主としてものとなったのである。
亡夫を偲ぶ 山 本 睦 子
前々から母のために遺歌集を出版しようと思い構想を練っておりました。
歌誌「創作」を拡げては歌をチェックしてる光景はとても倖せそうでした。
優しい顔が目に浮かんで参ります。
上手、下手は別として歌に対する情熱は限りないものでした。
望みなかばで命をたたれ本当に無念だった事と思います。
この度皆様のご協力により主人の望みも叶えられてこんな嬉しい事はございません。
亡くなってしまうと年毎に人の記憶から忘れ去られてしまいます。
この遺歌集は私にとりましても大きな遺産として大切にしていきたいと思います。
永遠に消え去った人々のこと 頓 宮 幸 子
ぼんやりと空を仰ぎ、冬陽に包まれながら永遠に消え去ってしまった私の両親、次兄保喜のことを考えている。
この人達への無限の思いを筆にするのは、耐え難く辛い仕事である。だが、何故か遺された者達は彼等の生きていた姿や「声」を語らずには居られないのである。
父俊悟は幼少時の私の記憶では子煩悩な人であった。春になると多摩川堤の摘み草、房総の鋸山登山、夏の「海の家」等々へ幼い私達を引き連れて意気揚々と出掛けた。
私にとって特に印象的なのは、戦時中、食料をつめ込んだ重いリュックをかつぎ、学童疎開先の私のところへ、毎月一回汗みずくで訪ねてきてくれた姿である。
晩年は杖を支えに足を引きずりながら、そろそろと近くの図書館を往復した。
肩から下げた古びた黒い鞄には分厚い文学書数冊がいつも入っていた。歩けなくなってからは、自室で横臥したまま空を仰ぎ沈思黙考していた姿が心に刻みついている。最近私自身歩けないわけでもないのに、この父同様自分のベッドに横たわり、空を見上げ、いわゆる、来し方、行く末を走馬灯のように考えていることが多く、ハッとするのである。
亡父が俳句、短歌等の日本的ポエムの世界に浸っていたのは、別記の兄達の文章にもあるが、ある時、私に「本にしてくれないか。」と遠慮がちに口にしたことがあった。当時、自分自身の日常に四苦八苦していた私は取り合いもしなかった。亡父はこれきり何も言わなかったが、寂しさとあきらめから自らそっと処分してしまったのではないかと思う。
母豊野については、あまりにも多くの記憶と思いがあり、到底、書ききれるものではない。
幼少時、反抗期、社会人となってから、更に、妻、母となってからの私という娘には、絶えず苦労させられ、悲しまされ続けた母であった。ただ、晩年「本当に苦労かけたね。」と言うと、嬉しそうに「親だから当たり前だよ。今は苦労だったなんて考えたこともない。」と答えてくれた。
母が短歌を始めたのは、それまでの母のすべてを注ぎ込んだ三男二女が自立、別居した七十歳を過ぎた頃ではないだろうか。
狭い庭一杯につぎつぎと植木、花々を育ててはいたが、毎日庭に出てそれらに見入る母の後姿は私には驚く程、力無く見えていた。
既に父は現役を退き、母も永年、東奔西走していた婦人会長の職を退いていた。
暇つぶしに謡曲、木目込み人形作り、父や親族との旅行などもしていたが、「創作」会員となり稚い短歌を作り始めた。兄達の文章にもあるように、私がたまたま実家を訪れた際にも、「幸子、歌を直してくれない。」「本に載ったんだよ。」など期待を込め話しかけられた。
しかしながら、これまた現実生活に多忙であった私はろくに目も通さず、相槌だけで、父に推敲して貰うようすすめると「相手にしてくれないんだよ。」と寂しげに言った。母は、生活力に乏しくわがまま放題の夫を嘆き怒りはしたものの、それなりの文学的素養や、博識ぶりを内心は多少誇りに思っていたところがあった。だが明治生まれで自尊心の強い父は、自らの領域に踏みこまれるのを拒んでいたらしい。
父が寝たきりになってからの母の七十代後半から八十代位まで、その介護に独力で奮闘していた姿は、長女として何の力にもなり得ず、やりきれない傷みとなって今でも残っている。立てない父を背負い、よろよろと自宅の廊下を歩き、駆け足で買い物に出かけ、山のような汚れた洗濯物を片付けた。ついに体力が尽き「お父さんを背負うと二人とも転んじゃうんだよ。」と洩らし、父もようやく納得して入院、三ヶ月経ずして世を去った。
父没後の七回忌を過ぎた頃から、母の老衰による痴呆化が現れた。私達五人兄妹には予期しない衝撃であった。
八十五歳前後は殆ど入退院を繰り返す生活となり、離れ住む私達子供達を恋しがり、近隣の知人達にも多くの迷惑をかけた。明るく活動的で情念の豊かであった母が人間性を失っていくのは、おそろしい位早かった。入院生活三年目の六月二十二日老人病棟で孤独に逝ってしまった。
次兄保喜は、気がつくといつも私のかたわらに居る人であった。私の高校入学式にベレー帽に母手作りの上衣を羽織り早大生だった兄が保護者として同伴した。
後にガン手術で入院していた私を度々見舞ってくれたのも兄であった。母は次兄保喜(当時、在京中であったため)にのみ、私の病名を明かしていたらしいのだが・・・。
母が七人家族の生活費のやりくり、家事に忙殺されているのを見守っていた次兄が負担を軽くする為か、妹の庇護をしたのであろう。
保喜兄は早大卒業後、就職、結婚し遠く離れ住むようになってから交流は少なくなった。
両親が老い、父が他界した頃、次第に相互に接しなければならない状況となった。
父の葬儀の時、多くの弔問客を黙々と自分の車で送迎していた兄の哀しみに耐えた姿が目に残っている。
母が老衰からの心臓疾患、アルツハイマー病等を併発、緊急を要した時は、兄と二人で救急車を呼び、再三病院に運んだものである。その頃の、背をすっきり伸ばし、早足で大股に歩いていた元気な兄の姿を思い出す。
昨年六月二十二日の母の祥月命日はどういうわけか珍しく兄妹五人が揃い、菩提寺淨運院で墓参をした。その後、芝大門前の人混みを去っていく兄の後姿はゆっくりと足を運び、肩を落とし、病後の衰えと精神的虚無感が漂い、わけもない不安に襲われた。その予感が的中し、約十日後に急逝してしまったのである。
兄保喜の生涯は短かったように思われるが、生来負けん気の頑張り屋であったから精一杯生き抜いたのであろう。
両親、家族を愛していた兄は、私達兄妹の中ではもっとも早く亡き両親のもとへ旅立っていった。
生き残っている私は、これまで支えてくれた両親、次兄保喜へ「ありがとう」というのみである。
彼岸花と誰が名付けしや天仰ぐ
清しき朱色仏に似合ふ
亡母を偲んで 鈴
木 美 智
子
早いもので私も結婚三十五年になり昨年十一月には娘を嫁がせる親になりました。
今、亡き母を想う時、丁度私が結婚する頃の同年齢の元気だった姿がすぐ浮かんできます。
私の身のまわりは今でも母が仕度してくれた日用品がまだ現役で重宝しています。大分古びてしまい新しいものに代えればもっと便利なことは分かっているのですが、愛着があってとても手放す気にはなりません。きっと私が主婦をしている間はずっと使い続けることになるでしょう。
こうした品をととのえてくれた時の母を思うとしみじみ有り難く思います。嫁ぐ娘の幸せを願ってあれこれ選んでくれたのでしょうが、若い頃はそうしたことには気がまわらず自分がその立場になってやっと分かるようになりました。
晩年の弱った母を思い出すと悲しくて申し訳なくて悔しくて涙ばかりあふれます。遠くにいて自分たちの生活に忙しく母の側で優しくしてあげられなかったことが心残りになっていて母の短歌をよんでもつらい気持ちが先にたってしまいます。姑の看病をしている頃の私を気づかってくれる歌など、子を思う親心に胸が一杯になります。
でも私にとっての母はいつまでたってもよく働き、おいしい料理を作ってくれて、何でも出来て、私の我が儘をきいてくれる優しい母なのです。歌も上手で、子供の頃に聞いた母の唄は懐かしくて時折口ずさんでいることもあります。
私はこちらでは琴を習ってそろそろ十年になり冗談に「ボケ防止のつもり」などと言ってはおりますが、難しい曲に挑戦してなんとか弾きこなせた時の充実感は他では得られません。今後も生活の一部として楽しんでいきたいと思っていますが、これも若い時、母がすすめてくれたからこそ今に続けられているのです。叱られたこともたくさんありますが、甘えん坊だった私はやっぱり母が一番好きで素晴らしい母だったとずっと誇りに思っています。
私は母のようにはとても出来ませんが、娘には自分がしてもらった心くばりの何分の一かでもしてあげられたらと思っています。母が可愛がってくれた孫達の花嫁姿を見てもらえないのは本当に残念ですが、きっと天国で父と二人一緒によろこんできてくれることと信じています。
祖父母のいろいろ 鷲 見 美 葉
確か小学校四年生の夏休みだったと思います。祖父母には白河に一週間ほど連れて行ってもらいました。
その時の私は父母と離れて弟と自分だけ旅行に行くというのがちょっと大人になった気分で嬉しくもあり、電車に乗るときからすごく興奮していたのを良く覚えています。
白河ではトウモロコシ畑に連れて行ってもらい、自然の中で思う存分遊ばせてもらいました。
朝、祖母に三つ編みを編んでもらったことや、祖父にいろいろな話をしてもらったことなど、子供を持つ身となった今、面倒をとてもよく見てくれたなあと、しみじみ思います。
目黒の家に行くたびに顔をくしゃくしゃにして笑いながら「大きくなったなあ。」と頭をなでてくれた祖父、料理上手で働き者だった祖母、思い出は尽きません。
何よりも孫の成長をとても喜んでくれていた姿が脳裏に焼き付いています。
早いものでもう十七回忌と七回忌を迎えてしまったのですね。
精進落としの席で皆様と思い出話をするのを楽しみにしています。
縮んだシャツと食べかけのハンバーグ
あれから十五年、それでも白木蓮は咲き続ける
山 本 有 意
こんな風にして作文を書くのは一体何年ぶりになるのかな、とちょっと考えてみた。
高校時代にまで記憶を辿らないと、まともに作文を書いた覚えがない。多分、高校卒業時に書いたのが最後だろう。「乱筆」はパソコン(Mac)のおかげで、無いのですが、「乱文」は許してくださいませ。
では本題。「おばあちゃんの想い出」ですね。一番古い記憶は「北海道旅行」かな?
僕は父に、幼稚なおもちゃを買ってもらった記憶が無く、その道中、塩ビ製の怪獣人形をサービスエリアのレストランのお土産コーナー(だと思う)で見つけて、
「おじいちゃんかおばあちゃん、どっちでもいいから買ってくれよぉ」と思っていたのですが、これが一番古いかもしれません。
おじいちゃんが「鹿と相撲を取る」と言い出したのもこの旅行の時でしたっけ?
でも、おばあちゃんの存在を一番最初に認識したのはいつだっただろう?
我が家では毎年正月の行事で、母親の実家(港区麻布十番)と、父親の実家(目黒本町ですね)に、年始の挨拶に伺うのが恒例となっていました。そのせいで、おばあちゃん=お正月=お年玉 というある種”パブロフの犬”的な、連想がありました。
おばあちゃんはいつも笑顔でやさしくて、その後伝え聞いた”男勝り”な雰囲気は微塵も感じられませんでした。お年玉しか考えてないガキンチョにとってはまぁ当たり前ですよね。そして一年おきに会う度に「大きくなったねぇ〜ゆうちゃん」と言われ続けるのですが、僕は、学校で背の順に並ぶと、いつも前から2〜4番目位の小ささだったので、心の中で「大きくなってないよぉ〜っ!」と叫んでいました。しかし誰に伝わる訳でもなく、、、そして月日は流れ、一九八六年春、僕が十九歳の時に話は飛びます。
僕は新聞奨学生に見切りをつけ、大学受験を目指して予備校へ通いながらおばあちゃんと生活を共にするという、奇妙な日々がスタートしました。おばあちゃんとしては、「話し相手&ひまつぶし」の存在として期待していたと思います。始めの頃は三十分おき位に部屋を訪れ、「梨あるけど、食べるかい?」「苺食べるか?」「風呂沸いてるよ」など、なにかと理由をつけては部屋を訪れ、部屋に顔を出さないときは、来る理由を考えているのか!というくらいのものでした。結果から言うと、僕の大学受験の計画は頓挫し、その後は、父の仕事の手伝い〜アルバイト〜広告代理店〜家電販売店と、なんだかよく分からない経緯をたどるのですが、学生から社会人に切り替わる間に、貴重な猶予期間として記憶に残っている事や、今となっては懐かしい、おばあちゃんとのバトル(←ちょっと大袈裟だが)の想い出がたくさんあります。
その1「手洗い表示の服に手荒い仕打ち」事件
当時、日産自動車に入社して、社会人生活をスタートさせたばかりの姉が、初ボーナスを支給され、そのお金でDCブランド「NICOLE
CLUB FOR
MEN」のロゴ入りの長袖ラガーシャツをプレゼントしてくれました。黒を基調としていて、袖はホワイト、品の良いロゴ入りでウール一〇〇%のそのシャツは、大のお気に入りとなり、デリケートな素材なので、クリーニングに出すか、アクロンなどで手洗いをして、大事に大事に着ていました。
そしてそんなある日、家に帰ってくると、その大事なシャツがハンガーに掛かって干してありました。あぁ、おばあちゃん、洗ってくれたんだな、と思ってよく見ると、なんだか小さいぞ、、、。子供服か☆!? ん? ぅぁああ゛!
「手洗い」表示のその服は、普通に洗ったせいですっかり縮こまってしまっていた。そして僕は怒りましたねぇ。
僕 「おばあちゃん、手洗い表示になってるだろ!姉さんに貰った大事なシャツなのに、これじゃもう着れないよ、どうすんだよ」
祖母「・・・(困)。」
乾いたところで試しに着てみたら、まるでスピードスケートの選手のようにピッタリと体に張り付き、袖は肘が隠れる程度、へそは隠れない位まで縮こまっていました。
そんな訳でその服は、何度かためらったものの、最終的に「ゴミ箱」行きとなりました。
今となっては、ただの笑い話以外の何物でもないんですけど、当時の僕はかなり怒りました。しかし日が経つにつれて怒りは収まり、逆に、おばあちゃんに悪いことをしたな、と考えるようになりました。気を利かせて洗濯をしてくれたおばあちゃんのうっかりを、徹底的に追いつめて「ごめんね、ゆうちゃん」と言わせたところでどうなるわけでもないですし。今はこの話を皆さんに公開したところで、おばあちゃんに、
「おばあちゃん、あの時は感情にまかせて言いたいこと言ってごめんね」と伝えたいです。
その2
「食いかけハンバーグをテイクアウト」事件
一体なぜあの時、僕とおばあちゃんが渋谷に行ったのか、そして東急の最上階で昼ご飯を食べていたのか、今となってはその細部を全く思い出せない。が、しかし、そんな状況が確かにあったのである。歩幅の狭いおばあちゃんに合わせて歩く僕は、一人の時とは違うそのスピードに、気怠さと軽い腰痛を覚えながら同行していた。はっきりと覚えているのはそれくらいで、その目的はただの買い物だったのか、誰かへのお見舞い品の購入のためだったのか? それも分からない。とにかく用事を済ませて昼ご飯となった。そして、この話の主題となっているハンバーグは、僕がオーダーしたのか?それともおばあちゃんなのか? それすら今となっては思い出せない。ただ、当時の僕の胃袋はちょっとしたもので、まず食べ残すことは考えられないから、おばあちゃんがハンバーグ定食、僕は生姜焼き定食かなにかを注文したのだろう。そして食後一服、一息ついたときに皿を見ると、ハンバーグが半分ほど皿に残っていた。そしておばあちゃんはそれを「包んでもらって、持って帰る」と言う。
話は飛ぶが、食事の礼儀について。最近、会社の後輩を見ていて思うのだが、とにかく「好き嫌い」が多い。二十五才にもなるのに、チャーハンから見事にグリーンピースだけを取り除いて食べる後輩。「中華丼はタレが好きだけど、嫌いな具が多い」と言って、半分くらいの具を別皿に取り除いて食べる既婚女。その残し具合は見ていて気分のいいものでは無い。我が家では全般的に好き嫌いはなく、特に父の食後の皿は、きれい好きな人の家の便器のようだった(↑舐める気はしないがきれい、の意)。「自分に与えられた食事」へのこだわりは、そんな父を見て育ったせいか、特に年をとるに従って強くなっているように思う。他人の家におじゃまして食事を出されたときは必ず全部食べきる(タイ料理以外)。食べきれないときは前もって予測して、誰が見ても食べきれないから残している、と伝わるように綺麗に残す(めったに無いが)。これは僕の数少ない、人生のルールのひとつである。
そんなふうに考えるようになった今でも、やはりレストランで残した食事、しかも食べかけた物を包んでもらって持ち帰るという行為は、恥ずかしい、という気持ちを拭いきれない。「やめなよ、おばあちゃん、恥ずかしいからさ」と言う僕に対して、おばあちゃんの出した答え、というか最大の妥協案は、「紙ナプキンにこっそり包んで持ち帰る」というものだった。そしてそれは、紙ナプキンにしっかりと包まれて、おばあちゃんのハンドバッグに収まった。僕が食べるためではないその「食いかけテイクアウトハンバーグ」はその後どうなったのかは知らない。多分その日のおばあちゃんの夕食になったのであろう。
食べ物に対する世代のギャップは確実にあるし、今後も存在し続ける。父以上の世代は、食うに困る生活を強いられて育っているし、僕らは日常の食事を当たり前のように食べて育った。しかし僕は僕なりに「食」に関する考えを持っているし、やはり下の世代に対しては、そのギャップに戸惑うことが多い。それと同じ意味で、おばあちゃんもきっと僕に対して「罰当たりな孫だ」と思っていたことだろう。
最後に。
記憶に強く残っている二つの「事件」を公開させていただきましたが、おばあちゃんと生活していた一年間、他にも沢山の出来事がありました。大晦日に、西小山商店街の「長寿庵」で年越しそばを食べたこと。立会川遊歩道に咲き乱れる桜並木を見ながら散歩したこと。本物の「ハチ公」を見た話を聞いてビックリしたこと。しかし残念ながら今となっては、まるで、昔見た映画のスチル写真を見ているようで、そのイメージだけが記憶に残り、ストーリーが思い出せないのが残念です。あれから十五年を経て、今一番感じることは、当時の自分の未熟さと身勝手さ。予告もなく勝手に出かけて行っては、とんでもない時間に帰宅する生活、、、。たった一年間の共同生活ではありましたが、「おばあちゃんに心配をかけた人ランキング」という部門があったとすれば、父を含む五人兄弟の皆様方にも決して負けていないでしょう。父の「谷川岳に遭難」にはかなわないですけど。今回の執筆にあたって、そんなおばあちゃんの心配が歌に詠まれていると父から伝えられました。その一句から、当時の僕の「乱れた生活」と「おばあちゃんの心配」をお察しくださいませ。
枕許の電話に孫の声を待つ
夜更け二時過ぎわれは八十
おばあちゃんのこと 加 藤 佳 苗
「遺歌集に投稿する」このような機会に恵まれなければおばあちゃんのことを思い出すことが少なくなってきた気がします。
そんな自分を反省しながら、いろいろと昔のことを思い出して見ました。
私のおばあちゃんとの出来事で一番印象的なことといえば、船橋の自宅で同居していたことを思い出します。 私は当時高校生で、我を通してしまうことが多く、恥ずかしながらぶつかってしまったことも多々ありました。
こんな一面からも生前のおばあちゃんの気丈な性格も見えてくるのではないでしょうか?
そして恐らくそんな部分を孫の私も譲り受けているのかもしれませんが。。。
大人になった今の私とおばあちゃんが向きあっていたら、どんな会話をかわしているか想像しながら、このくらいで私の思い出話も終わらせていただこうと思います。
三浦三崎の想い出 山 本 勉
大東亜戦争開幕直前の昭和十五年頃、東京は目黒区向原町に小さな我が家があった。当時小学校三年生の私は結核の初期症状である肺門リンバ腺炎を患って学校を休み母に連れられて毎週二〜三回くらい病院に通った。
ある日、たまたま父が付き添いで病院に行った帰途に中華料理店に寄り、芙蓉蟹(フヨウハイ・かにたま)という料理を食べさせてくれた。 初めて味わう私はこの世の中にこれほど美味しいものがあるのかと驚嘆した。
その数日後、私は高熱を発して父母が見守る中、病床に伏していた。再三うわごとを言い、苦しげな息をしていたらしく父母はこのまま息絶えてしまうのではないかと不安にかられていたそうだ。
私はうなされながらも夢を見ていた。数日前に初めて味わった芙蓉蟹が、私の目の前のテーブルに置かれているのである。私は思わず芙蓉蟹の皿を取ろうとして手を出した。すると芙蓉蟹の皿はスルリと遠くに逃げていった。
「アッ!アーッ!」私は大声で絶叫した。
父母が私の体を揺りおこした。
「どうした!どうかしたか!」
父母は私が臨終の瞬間を迎えたのかもしれないと動転したのだ。
「フヨウハイ!フヨウハイのお皿が!」
私は必死にわめいたが、父母にはなんのことかわからない。
「どうした? どうした?」
正気に戻った私は芙蓉蟹が目の前から去っていった夢のことを話した。
私の臨終かと思いこんでいた父母はあっけにとられ、反面は安心し、そして気が抜けてしまったという。
翌日、近くの中華料理店からの出前で芙蓉蟹が届けられた。今度こそ本物だった。病人であることも忘れた私が芙蓉蟹の皿をかかえながらモリモリとかぶりついているので、父母は安堵の胸をなで下ろしたそうである。
主治医が母に私の転地療養を勧めた。肺門リンパ腺炎は栄養を充分にとり、空気の良いところで過ごすことだけが当時は唯一の治療法であったので、父母は真剣に対策を協議したようだった。
父の知人の紹介で三浦三崎が転地療養先として選ばれた。今にして思うと当時の我が家の家計は大変だったろうと思う。東京ガスの下級社員だった父のサラリーが多いはずはないし、食べ盛りの子供四人をかかえての父母の苦労は察するにあまりある。
長兄正也は府立十二中の二年生、次兄保喜は小学校六年生で府立中学受験中、この時はもう合格していたのかもしれない。妹幸子は小学校一年生で末妹はまだ生まれていなかったが、貧乏所帯のやりくりが大変だったことはその頃の幼い私でもおよその見当はついていた。その上に今度は私と母が下宿を借りて別に生活することになれば父としては二所帯を養わなくてはならないことになるわけである。しかし、父も母も一度たりとも子供達の前で愚痴めいたことを言ったことはなかった。
三月の中頃、あまり冴えない空模様の日の朝。手回りの品を持った私と母は父と丁度その頃我が家に逗留していた従兄に送られて家を出た。従兄は陸軍将校であり、いつも腰に軍刀を吊って格好良く歩いていた。若くて元気の良い将校さんが母と私の大きな布団包みを三崎までチッキで送るため西小山駅まで運んでくれるのだ。時節柄、大きな荷物の発送などは駅員がいろいろと問いただしたり、やかましい手続きを要求されたりすることが多かったのだが、軍服を着た陸軍将校が運び込む荷物について駅員が文句をつけることなどあり得ないので、従兄が同行してくれることは大変ありがたいことだった。従兄の小山少尉が布団を背負い運搬の役に立たない父は少尉の軍刀を担いで後からついてきた。
省線電車の終点横須賀駅からバスに乗り、東京湾を左手に見ながら、埃っぽいバス道路を走った。三浦三崎までずいぶん遠かったような気がする。
バスを降りてから三崎の町の中の曲がりくねった狭い路地を二十分ほど歩いて紹介してくれた知人の親戚の家に到着した。小憩したその家には私と同年の男の子がおり、友達になるようにと引き合わされた。清ちゃんというその子はとても活発で気持ちの良い子供であり、すぐに私と仲良くなって地元の子供達が遊ぶ場所などをいろいろと教えてくれた。
私と母が下宿する家はその家の隣の二階家であり、海の見える二階の六畳間に案内された。
その当時、私はその二階には部屋が四つか五つあるように思っていたのだが、実は私達の部屋と同じような部屋がもう一つあるきりだったということを後年になって知った。というのはそれからほぼ五十年後の平成八年に私は一人で昔、母と二人で住んだ懐かしい下宿屋の跡を探す旅に出たのである。まさかそんなに古い建物が残っているとは思わなかったが、行ってみるとまさしく私達が暮らした下宿屋が、ひどく古ぼけた姿で残っていたのだ。近くの浜辺にあった小高い丘は崩され、あたりの様子はすっかり変わってはいたものの下宿屋だけは不思議なほど昔のままの姿をとどめていたのには驚嘆し感激もしたが、間違いなく二階には二部屋しかないことを確認、自分の五十年間の思い違いに気がついたのだった。
その下宿に入居した次の日から私と母の新しい生活が始まった。清ちゃんが私を海岸や浜辺の丘に連れていってくれて、いろいろな遊びを教えてくれたが、彼は学校に毎日通っているのだから、いつも私の相手をしているわけにはいかないので、私は主として母と二人きりで海岸で遊ぶことが多かった。海岸の岩場にはイソモノと称する田螺に似た小さな貝が沢山棲息しており、いくらでも獲ることができた。味噌汁の具にするととても美味しいので、母と二人で毎日沢山獲ってきた。すぐそばの丘に登り日光浴を兼ねての写生も何回か繰り返した。
ある日、いつもの通り、クレヨンを握って絵を描いていると、遙か彼方の水平線上に小さな黒い点がポツンと現れた。 遠洋漁業の漁船が帰ってきたのだと思った。ところが続いてもう一つの黒点が現れ、更に第三、第四の黒点が水平線上に出現した。目を凝らしていると黒点はぐんぐん大きくなり、一列に並んでこちらに向かって来るではないか。
「軍艦だ!連合艦隊だ!」
仰天し、同時に感動した私は大声で叫んだ。戦艦らしい大型の軍艦を先頭にして白波を蹴立てながら走ってくる艦隊は溜め息が出るほど勇壮で、美しかった。
それまでの私が見た軍艦といえば、父に連れられて見学に行った横須賀港でコンクリートづけされている日露戦争日本海海戦の旗艦三笠だけであり、現役の軍艦が動いている姿など見たことがなかったのですっかり興奮してしまった。艦隊はやがて右へ旋回し城ヶ島の陰に隠れて一隻づつ姿を消していった。長い巡洋航海を終えて母港横須賀に帰港するところだったのだろう。見るからに勇ましく、強そうな十数隻の艦隊を初めて見た私は、日本海軍はこんなに強いんだ、これなら世界の何処の国と戦っても負けるはずはないと固く信じた。
海岸での遊びに飽きてくると、今度は目の前に浮かんでいる城ヶ島に渡りたくなった。当時は城ヶ島への橋はなく渡し船だけが唯一の交通手段だった。母が作ったおにぎりを持ち、五、六人しか乗れない小さな櫓船でゆらゆら揺られながら、対岸の島に渡った。城ヶ島には数軒の漁師の家があるだけで山の上にある燈台だけがこの島の施設といえるものだった。
階段を登って燈台を見学したが、その先は一般人通行禁止の立て札があった。要塞地帯に指定されている場所なので、うっかり入り込んだらたちまち憲兵に捕まってしまうと脅かされた。
城ヶ島の海岸の岩場にもイソモノが沢山あったので母と二人で夢中になってイソモノを獲っていた。
「アラ!大変!」母が指さす方を見ると、そこから十bほど離れた岩場の上に置いてあった私達のお弁当の包みを二〜三羽のカラスがつついているではないか。
私は脱兎の如く飛び出してお弁当の包みの方に駆け寄った。しかし、その瞬間、カラス達はバタバタと羽を煽らせて飛び立っていった。そして、空中を飛ぶカラスの長い嘴には、丸くて黒い塊、間違いなく海苔でくるんだ私達のおにぎりが突き刺されているのが見えた。
城ヶ島はその後も数回遊びに行ったが、それからはお弁当の包みを絶対に手元から手放さず、カラスを警戒することを覚えたのであった。
下宿の窓から見ていると、一日に数回城ヶ島の周りを回って遊覧船が走っていくのが見える。天気の良い日は城ヶ島を一周し、波の高い日は島を回らずに海岸近くを走ってから油壺まで行くと聞かされた。そしてその油壺には日本で一番の水族館があるとのことなので、私は母に遊覧船に乗りたいとねだった。
遊覧船に乗り込んだ日は波が高かったが、私は嬉しくてたまらず舷側にへばりついて海の様子を眺めていた。高波のため船が大きく揺れるので、乗り合わせた十数人の観光客のほとんどは船酔い気味で気持ち悪そうにしていた。「お宅の坊やは船に強いんですね。こんなに揺れているのに、まるで平気みたいですわ。」隣に座っていたおばさんが母に話しかけている声が聞こえてきたが、嬉しくて興奮している私は船酔いなどするヒマもなかったというのが本当のところだったろう。
油壺は現在のような観光地ではなく、水族館の他にはホテルもなければ、もちろんヨットハーバーもなく、小さな茶店が一軒だけ店を開いているだけの寂しいところだった。水族館の入り口には小さな池があり、その中にものすごく大きな亀が一匹、悠々と遊んでいた。多分浦島太郎が乗った亀なんだろうと思った。入り口を入ったところに円形の大水槽があり、その中には鰯の大群がグルグルと一定方向に回遊しているのが見えた。壁際にズラリと並んだ水槽の中には知らない名前の魚達が沢山泳いでいたが、その中では鬼のように奇怪な姿をしたタツノオトシゴが、私の印象に強く残った。
油壺から三崎町まで直通する道路はまだ出来ておらず、バスでかなり遠回りしなければ帰ることが出来なかった。
それから何日かの後、海岸で遊んでいる時、私は突然の思いつきで海岸伝いに油壺方面に行ってみようと母に提案した。
「海岸伝いには油壺までの道はないんだよ。」
母が言った。
「行けるところまで行ってみて、無理だったらそこから引き返せばいいさ。」
冒険好きの私は不安がる母を強引に説き伏せた。身軽な私が海岸の岩場をへずりながら、どんどん進んでいったので、母も恐る恐るついてきた。ところどころ、際どいバランスを要する危険な個所もあったが母もなんとか突破して私のあとに続いてきた。油壺まではかなりの距離があったが私と母は苦闘の末にどうにか辿り着くことに成功した。
「新しいルートの開拓だ。」私は思わずバンザイし、母はそんな私の姿を見てニコニコと笑いながら言った。
「少しおなかが空いたからお団子でも食べようか。」
茶店に入りお団子を注文、ステキにうまかった。
ところがである。食べ終わったところで母が小さな声で私に囁いた。
「お財布を忘れてきちゃった。どうしようかね。」
私は跳び上がるほどびっくりした。
たいへんだ。こりゃあ食い逃げだ。お巡りさんに捕まってしまうかもしれない。と本気に思ったのである。しかし母が意外なほど平然としている様子なので私はもう一度驚いた。
母は静かに立ち上がって店番の老婆のところに行き、なにか話していた。
私はドキドキしながらその老婆の様子を見つめていた。老婆が怒ってドナリ出すのではないかと思ったのである。
しかし彼女は柔和な笑顔を絶やさず母の話を聞いているようなので私はホッと安心した。
暫くして母は私のところに戻り、
「明日、お金を持ってくることにしたからね。」老婆にお礼を言って立ち去る母の後ろで、私も最敬礼をした。
母はちゃっかりと帰りのバス代まで借りてきてしまったようだった。
翌日早速、お礼の菓子折を持参して借りたお金を返しに行き、又最敬礼をした。三崎に戻るバスの時間にはタップリと間があり、他に見るところもないので、付近を散歩していると、目の前に見事なソラマメがたわわに稔った畑があった。
「ここでちょっと待ってて・・・」
母は私にそう言うと、ズカズカと畑の中に踏み込んでいった。
そして畝の中にしゃがみ込んだ母は手早くソラマメの実をもぎ始めたのである。私の胸がドキンと鳴った。
畑の持ち主に了解を得ているはずはないのだから、これは野菜ドロボーではないか。
私は慌ててあたりを見回したが、人影は全くなかった。ドキドキしながらも私は警戒の目を光らせているのに、母は平然として作業を続け、かなりの収穫を手にして戻ってきた。
「とても美味しそうなソラマメだからね。」
そう言った母は、イタズラを見つけられた子供のような照れ笑いをして見せた。
私達は大急ぎで帰りのバスに乗り込んだが、私は家に着くまで、畑の持ち主かお巡りさんが追いかけてくるのではないかと心配のし続けだった。
しかしながら、家に着いてすぐに茹でて貰ったソラマメはびっくりするほど美味しく、食べ終わったときには罪悪感はサッパリと消えていた。
このソラマメはともかくとして、毎日の食事で母は私に栄養をつけさせるため、かなりのゼイタクをして美味しいものを食べさせてくれた。 東日本有数の漁港である三崎は新鮮な魚介類が豊富で、魚市場で買ってくる魚介類は安くて美味しいのである。マグロの刺身が嫌いだった私はここで母が買ってきた新鮮な刺身を食べてからは、刺身がすっかり好きになってしまったくらいだった。
町の中心部に三崎館という名前の大きな旅館があった。町では一番の旅館とのことだったが、その他の旅館といえばもう少し小さい旅館が一つあるきりなのでさほど威張れたものでもない。その三崎館の前を通ったときに私は母に言った。
「こういう旅館で御馳走を食べてみたいね。」
「それじゃあ、入ってみよう。」
あっさり言った母は私を連れて三崎館の玄関にどんどん入っていった。荷物も持っていない私達母子をみて女中は少しだけ怪訝な顔をしたものの、長い廊下を歩いて奥まった立派な部屋に案内してくれた。見事な床の間と、高そうな掛け軸のある次の間付きの広々とした和室だった。部屋の中央に据えられた大きな卓の前に私と向かい合って座った母が言った。
「さあて、何を食べようかね。」
部屋の隅で控えていた女中が少しモジモジしながら言った。
「あのう・・・お食事だけなんでしょうか?」
「そうよ。ここに泊まるわけではないの。」
母が答えた。
「あのう・・お食事だけでしたら下の食堂でお願いしたいんですけど・・」
私達は再び長い廊下を戻って、玄関脇にあるあまり冴えない食堂に連れ戻された。豪華なお座敷で大ご馳走が食べられると喜んでいた私はがっかりしてしまったので、その食堂で何を食べたのかは全く思い出せない。
こんなふうに毎日母と二人だけで素晴らしく楽しい日々を過ごしている私だったが、すでに新学期に入り自分も四年生になっているのだと思うと、学校の級友達のことが少しだけ気になった。ただし、勉強などしなくて良いことだけは気に入っていたが、東京の自宅のことはずいぶん気になっていた。皆の面倒をみていた主婦がいなくなってしまった後、父と兄妹の四人家族はいったいどうやって暮らしているのか心配だった。
私は時々母にそのことを言った。
「心配しなくても大丈夫。お父さんがちゃんとやっているから。」
それにしてもと今でも思う。会社勤めの父が子供三人の面倒をどうやってみていたのか不思議に思っていた。
その父は月に一〜二回くらい、日曜日に兄と妹を連れて私達の下宿まで見舞いにやってきた。父達一行を城ヶ島へ案内したり、海岸でイソモノ獲りを教えたりして私は張り切って動き回ったが、帰る時間になると小学校二年生の幼い妹は母と離れがたくて、バスが発車するときにワアワア泣き出すのだった。
梅雨時となり毎日のように雨が降った。下宿屋の窓に寄りかかって海を眺めていると、目の前に霧雨に霞んだ城ヶ島の黒々とした姿がぼんやりと浮かんで見える。どこからか名曲「城ヶ島の雨」のメロデイが流れてくるようなムード、なにか切ないような感傷に浸る。夕方になり、もの悲しい汽笛の音をひびかせて漁船が次々と帰ってくる。夕闇が濃くなってくるにつれて、城ヶ島の山頂にある大きな燈台の他に港の防波堤の端に立っている小さな赤燈台、青燈台と、併せて三つの光がキラキラと輝き始める。
なんとも切ないような想いにかられて息を呑んだ私は、われ知らず「城ヶ島の雨」のメロデイを口ずさんだりした。
城ヶ島にある北原白秋の詩碑は見物には行かなかったものの、恐らく白秋はこんな情景を見ながらこの詩をつくったに違いないと思った。
下宿屋の私達の部屋の隣には若い女性が独りで住んでいた。母はいつのまにか彼女と言葉を交わすようになり、すぐに仲良くなったらしく、彼女は私達の部屋に時々遊びに来るようになった。部屋は襖一枚で仕切られているだけだったので母と彼女は相談して、襖の目張りを剥がして廊下を通らずに直接行き来できるようにしてしまい、更に頻繁に遊びにやってきた。明るい感じの女性でありながら慎ましやかな話しぶりには私も好感を持てた。彼女は遠洋漁業に従事する船乗りの若妻であり夫は半年に一回くらいしか帰ってこないのだ。夫の船が来月は三崎港に帰ってくるのだ、と彼女は嬉しそうに語った。七夕の牽牛と織女の話を聞いているみたいだなと、私は思った。
そして彼女は海が見える私達の部屋の窓から、遙かな水平線を長い時間じっと見つめていることが多かった。
六月の終わり頃、まだ梅雨は終わらず雨模様だったが、私と母が三崎を引き上げる日がきた。父母が相談して私の転地療養先を福島県白河にある母の実家に変更したのである。子供の私は父母からなんの説明も受けなかったが、後になって考えてみると、なんといっても二所帯を賄わなくてはならない我が家の家計負担が大変だったこと、そしてそれにも増して主婦のいない四人家族の面倒を父一人でみるのはもはや限界だったのだと思う。
三浦三崎の町が大好きになっていた私はちょっぴり残念ではあったが、父母の苦労がある程度察しがつく年齢になっていたのだから不満など言えない。
迎えに来た父に連れられて、バスに乗り込むときに、城ヶ島と三崎の町を振り返り、もはや二度と来ることのないであろう懐かしい風景を必死に脳裏におさめた。僅か三ヶ月間の三浦三崎の生活だったが、生涯忘れられないほどの沢山の想い出を胸に刻んで私は父母とともに東京の我が家に帰ったのだった。
この時から五十五年後の平成八年十月私は母と二人で暮らした懐かしい下宿屋の窓の下に唯一人で佇ずんでいた。
半世紀前の想い出が走馬燈のように頭の中をよぎり、幼い頃の甘酸っぱい思い出が胸にジーンとあふれてきた。
隣りに住んでいて友達となった清ちゃんの家は明らかに建て直され、小さいながらもなかなか瀟洒な建物に変じていた。
その場所をなかなか去り難く暫くの間あたりを徘徊したいたところ、一人の老婆がやってきた。ウロウロしている私を見て不審に思ったはずだが、なかなか愛想良く話しかけてきた。
「半袖で寒くはありませんか?」
「いえ、大丈夫です。ところで失礼ですが、このあたりにお住まいの方ですか?」
「そうですよ。」
「私、五十年くらい前にここに住んでいたことがあるので、懐かしくてやってきたんです。ここは確か下宿屋だったと思うんですけど・・・」
「そうだったかも知れないねえ・・・」
「隣のこの家に清ちゃんという男の子がいて、私と同年くらいだったから、今は六十五歳くらいだと思うけど、どうなったか知りませんか?」
「この家はお寺さんの持ち家で、確か六十歳くらいの人がいたけど、十年くらい前に亡くなりましたよ。」
「お寺さんですって!」清ちゃんがお寺の子だったなどとは聞いたことがなかったので私はびっくりした。
「そうですよ。間違いありません。」
しばし暗然とした私は老婆に別れを告げ、城ヶ島に向かった。カラスにおにぎりを盗られた母との想い出の場所を確かめたいと思ったのだった。
山本豊野・保喜 遺歌集出版の経過
山 本 勉
本来、この遺歌集出版は故山本保喜がかねてから亡母の遺作を出版して供養したいという念願を抱き、勤務の時間的余裕も出来てきたこともあって独力でコツコツと編纂を進めてきたものでありました。
遺歌集の題名は亡母が特に愛していた我が家の庭の柿と紅梅にちなんで保喜が名付けたものです。
創作社会員であった亡母の遺歌を選び、自分の追悼歌を加えてワープロに入力、兄弟妹に対しては追悼歌あるいは追悼文の提出を要請、出版社との折衝も開始するなど構想が煮詰まってきたところでした。
昨年六月二十二日、亡母の命日に兄弟姉妹五名全員が菩提寺である芝の淨運院に参集し、墓参直後の会食の席上で体調はあまりよいとはいえなかったものの、遺歌集出版という宿願達成の日も迫ってきたことから、比較的元気に計画の進行状況などを説明してくれました。
ところが、その日から僅か十日あまりの後、入浴後に突然倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。折悪しく不在であった睦子夫人が帰宅して救急車を呼んだものの、既に事切れた状態であり心筋梗塞による急死であると医師に診断されたのでした。
私たち兄弟妹はひとしく茫然とした思いでしたが、遺骸に合掌している時に、「遺歌集の仕上げを頼むよ」という亡兄保喜の声が聞こえてきたように思えました。
悲しみの中に慌ただしく葬儀などの日程をすすめながら長兄正也と相談、私が故人の遺志を継いで出版計画を引き継ぐことと決めました。
早速私は故人が愛用し、遺歌集原稿を入力済みの東芝ルポのワープロファイルを私のパソコンに入力すべく変換作業を進めたのでしたが、この段階で気づいたことは故人は亡母の遺歌集出版を目的としていたことから、そのワープロファイルの中には亡母の遺歌と、故人が亡父母を追悼する歌だけが自選入力されてあり、追悼歌以外の歌は一首もないことでした。
遺歌集出版に執念を燃やしていた保喜が冥界入りした以上、当然のことながら遺歌集のプランは大幅に修正して山本豊野、保喜両名の遺歌集とすべきだと考え、同じ創作社の会員である長女頓宮幸子に依頼、近年の「創作」誌に掲載されている保喜の一般的な歌を新たに選定して、これを加えることとしました。
亡母は文学的知識をほとんど持たない人でしたから、ノートに書き留められた原稿をみると歌の心得のない私でさえ、技術的にはまことに稚拙なものが多いと見ていたのですが、歌の師匠ともいえる嶋武志氏の手直しをうけて見事に生まれ変わり、他の人の評価はともかく、子供である私たちにとっては肺腑をえぐられるような鋭い感性を感じられる歌が沢山残されていたのでした。
技術的にかなりのレベルにあったと思われる故保喜でさえ、
「おふくろの歌は目の付け所が良いので、テクニック的にはともかく、なかなか良い歌が沢山あるよ。」
などと賞賛していたくらいでした。
いま、あらためて亡母の遺歌を編纂しながら、私は亡兄のその時の言葉を思い起こしているのです。
保喜の歌について歌友間での評価は知りませんが、私たち兄弟家族にとっては、難しくてよく分からないところも多いけれど、何かとても上手な歌らしいな、という思いが強いのです。
NHK学園の歌壇にたびたび入選し、特選も何回か頂いたことが本人の心の支えともなっていたようで、これからの余生を歌作に打ち込み、より素晴らしい歌を詠んでくれることを私たち兄弟妹は期待していたのでした。
一九八五年に父俊悟が逝き、その十年後の一九九五年に母豊野が亡夫の後を追い、そして僅か五年後の二〇〇〇年に保喜が私たちに別れを告げてしまいました。
亡父母はともかく、少なくとも兄弟姉妹五名は揃って新世紀を迎えることが出来そうだと信じておりましたのに、誠に残念なことでありました。
なお、亡父山本俊悟は若い時代に俳句が趣味の一つであり、窪田空穂主宰の俳句誌「土壌」の同人に参加、春晃という俳号で詠んだたくさんの句があるはずなのです。
そこで故保喜が父の遺作も遺歌集に加えるべく手を尽くして探したものの、なかなか発見できず、ついに諦めて放棄したいきさつがあります。
亡父が老後になってから、短冊などに書き散らした遺句が僅かに残ってはいるのですが、亡父の悪筆は私には全く判読できませんので、遺憾ながら私も断念せざるを得ませんでした。
二十一世紀を迎えた本年五月二十日、私たち遺された一族及び親しき知人、関係者の方々が俊悟十七回忌、豊野七回忌、保喜一周忌法要のため菩提寺に会し、このささやかな遺歌集を霊前に供え、天国から私たちを見守っているであろう三人の冥福を祈っているのです。
柿と紅梅
山本豊野・保喜遺歌集 平成十三年五月二十日発行│
発 行 者 │山 本 正 也 │
編 者 │山 本 保 喜
│
編者兼タイピング │山 本 勉 │
掲 載 歌 補 選 │頓 宮 幸 子 │
印 刷 所 │電 子 印
刷 社 │
発行所 〒152-0002 東京都目黒区目黒本町六丁目五号番十八号│
俊 豊
会│
Tel.03-3711-1701 mail-to byama@livedoor.com│
連絡先
〒145-0071 東京都大田区田園調布一丁目三番十一号四〇二│
山 本 勉 Tel&Fax
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